ヘビメタが鳴ってた。
どうしても、くるしい。
この雰囲気。この時間。
ヘビメタが鳴ってた。くるしかった。くるしかった。いまも、くるしい。どうにもならない。けっきょく、こういう人生だったのかな。ほんとうに、きちがい兄貴がきちがいで、鳴らしている最中もまったく関係がない人なんだよな。鳴らしているのだから関係がある。それも、ものすごくでかい音で鳴らしているのに、ものすごくでかい音で鳴らしているということがまったくわかってない状態なんだよな。耳が正常なら絶対にわかることなのに、きちがい親父のような状態で、わかってない。だから、どれだけやったってやったことになってないんだよ。この「どれだやったってやったことになってない」というのは、きちがい親父とおなじだ。これ、ずっとこういう頭で生きているから……生活しているから、二四時間中、二四時間、本人は気がつかないけど、そういう感じ方、そういう認知、認識をもっているということになる。普通に……ごく普通に、そうなんだよ。「ごく普通に、そうなんだよ」というのは、「ごく普通にそういう状態になっている」ということだ。だから、とめようがないんだよな。どれだけ言ったって、そういう状態なのだから、そういう状態で認めない。それが、二四時間中、二四時間、成り立っている。本人は、「わるぎ」なんて、まったくないんだよ。けど、本人が別の音で一分間でも、鳴らされ続けたら、発狂するような音のでかさで、鳴らし続ける。
きちがい兄貴は、まったく悪いことをしているつもりがないんだよ。きちがい親父も、意地をはってわるいことをするとき、悪いことをしているつもりがまったくない。かかわっているとも思ってないからな。自分が発狂して、自分の意地をとおしてわるいことをしているのに、わるいことをしたというつもりがない。やっているさいちゅうだってそうだ。それとまったくおなじことが、兄貴にも成り立つ。
兄貴のことを言っているのか、親父のことを言っているのかと思う人がいるかしれないけど、両方のことを言っている。これ、ほんとうに性格が同じ。やったことが同じ。意識の持ち方が同じ。発狂的な意地でやる部分が同じ。そして、発狂的な意地でやったことには、自分がまったくかかわってないような感じがしているという部分もおなじ。こういうことが、ほかの人にはわからない。どうしてわからないかというと、うちのきちがい兄貴、うちのきちがい親父と一緒に暮らしてないからだ。
で、不幸なことに、なんだか、似たようなことが成り立ってしまうのである。相似形なのである。世間の人が(おやじやあにきのことがわからない)というのが、ちょっとだけ、きちがい親父がやっていることについてきちがい親父がわかってないということや、きちがい兄貴がやっていることについてきちがい兄貴がわかってないということに、似ているのである。ぼくからすると、似ている。そういうところにも、不満があらわれる。他人は理解しないわけだから……。そして、他人のなかに成り立っている常識にしがみつく、わけだから。
他人は、まず、やられてないから、他人が経験した騒音とぼくが、うちの兄貴にやられて経験した騒音のちがいがわからない。そりゃ、家族として、うちにいて、うちの兄貴にやられたわけじゃないからわからない。そうすると、兄貴のヘビメタ騒音の影響を、ほんとうに、軽く見る。「そんなのは、関係がない」と言ってくる。「たとえ、そういうことをやられたにしても、働けないとか、一定の時間に起きることができないというのは、あまえだ」と言ってくる。けど、それ、ほんとうに、俺とおなじ経験をしたら、できなくなるから……。俺とおなじ経験をしてないから、認めないと思うけど……。自分は俺とおなじ経験をしてもできるつもりでいるんだよ。きちがい兄貴のような家族が、自分の家族のなかにいて、そいつが、きちがい兄貴のような態度で、きちがい兄貴が鳴らしていた時間、きちがい兄貴が鳴らしていたような音のでかさで鳴らしたとしても、自分は働くことができるし、自分は一定の時間に起きることができる……と自動的に思っている。ちがうんだよ。けど、ちがうとぼくがどれだけ言ったって、そいつが認めるわけがない。そいつは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音を経験したわけではないので、実際のことがわからない。「毎日、つもる」ということが、自分のからだをとおして、あるいは、自分の経験をとおして、わかってない。わかってないところで、ものを言っている。推測でものを言っているわけだけど……自分の経験から、そのヘビメタ騒音とやらの効果(影響)を推し量ってものを言っているのだけど……まちがっている。その推測がまちがっている。けど、俺がどれだけその推測がまちがっていると言っても、その人は、そう思わないんだよ。