ヘビメタ騒音で働けなくなったと言っているのに、「そんなのは、あまえだ。人間は働くべきだ」と言ってきた層と、専門家の言うことを信じてワクチンを打ってしまう層は、おなじだと思う。ワクチンを打ってしまった人たちのなかには、「専門家の言うことを信じてワクチンを打ってしまう層」以外の層も含まれている。この人たちは、職域接種や面会制限などの理由で、打ってしまった人たちだ。半強制を含めて、強制されて打ってしまった人たちだ。この人たちには、なにも言うつもりはない。なので、専門家がい言うから正しいという考えで打ってしまった人たちのみについて言及することにする。
専門家の言うことを信じてワクチンを打ってしまう層の人たちが、押しつけた意見というのは、まさに、死にあたいするような意見だと思う。俺が、むりだと言っているのに、ヘビメタ騒音生活を経験したことがないやつが「むりなことはない」と勝手に決めつけ、働くべきだと言う。
その当時、働くにはどうしても、通勤が必要だった。社会で働いたことがない人が働くには通勤が必要だったということだ。まあ、他にも条件はある。たとえば、おカネがない人が働くには通勤が必要だったということだ。まあ、当時は、働くにはどうしても通勤が必要だったという前提で話をする。この前提は、いまの人が考えれば、不確かな前提だけど、当時の人が考えれば確かな前提だ。
ところで、ほんとうに、きちがいヘビメタにやられているときの気分や状態、きちがいヘビメタに前日やられたあとの、次の日の気分や状態について、こいつらはなにもわかってない。どういうことがつみかさなったのかまるでわかってない。俺がどれだけがんばって、生活してきたのか、まるでわかってない。あの空間がまるでわかってない。わかってないのに、勝手に「むりなことはない」「エイリさんはあまえている」「働けるはずだ」と決めつけ、もし、俺が、それをすれば、死ぬしかないということを押しつけてきた。すすめてきた。これは、ゆるせない。
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ほんとうに、こいつら、ヘビメタ騒音のつらさがわかってないな。こういう人生だったんだよな。そりゃ、ヘビメタ騒音が一〇年間も毎日続けば、楽しむ能力もなくなる。ところが、楽しむ能力がなくなると、楽しむ能力がないということでせめられるのだ。「楽しもうとしないからダメなんだ」とせめてくる。「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるのに、そういうことをしないからダメなのだとせめてくる。これが、いまの、地球だよ。こんな地球で生きていておもしろいわけがないだろ。まあ、きちがい家族のヘビメタ騒音にやられたのは、ぼくであって、こいつらじゃない。こいつらはやられてないので、楽しむ能力がある。だから、自分は楽しむ能力があるが、エイリさんは楽しむ能力がないという関係性が頭のなかに成り立っている。その関係性は、じつは、「自分のほうがエイリさんより上だ」というような感情をうんでしまう。ようするに、「エイリさんは、自分より下だ」というような見方を作り出してしまう。……ああっ、いちおう説明しておくけど、働くべきだと言った佐藤のようなやつ……の頭のなかにも……こういう関係性に関する思考が成り立っている。感じ方が成り立っている。見方が成り立っている。
きちがい兄貴にやられるとこういうことになってしまうのだ。だれだって、あれだけ長い時間、きちがい家族によって、自分が一番きらいな音を、あの音のでかさで聞かされづけたら、こうなる。どれだけがんばっても、感情が死ぬ。楽しむ能力がなくなる。それなのに、「えらそうに」。これ、ほんとう、えらそうに!!
これ、ほんとうに、きちがい兄貴の態度とか、きちがい兄貴の認知・認識というのは、いっしょに住んでいる人しかわからない。きちがい兄貴にもわからない。きちがい兄貴の「わからなさ」というのは、普通の人の「わからなさ」をこえている。きちがい兄貴は普通の人の「きちがい兄貴の認知・認識にかんするわからなさ」をこえて、「きちがい兄貴の認知・認識」についてわかってないのである。ほねがらみ。きちがい的な無視。いのちがけ。この「ほねがらみ。きちがい的な無視。いのちがけ」というのは、親父もおなじだ。はっちゃっている。はいっちゃってたら、もうどれだけなにを言ってもだめなのだ。殺さなければならなくなる。つねに、そういう問題を突き付けられる。勝手にやるわけだから、そうなる。そういう態度で!勝手にやるわけだからそうなる。やっている本人は「まったくつもりがない」ということになっている。この「まったくつもりがない」ということを別の言い方で言うと 「ほねがらみ。きちがい的な無視。いのちがけ」ということになる。
つもりがない」ということは、こういうきちがいにとって「やってない」ということとイコールなのである。感情的にイコール。認知・認識的にイコール。だから、まるで自分がかかわってない状態を維持できる。本人のなかでは、「自分がやったことではない」「自分がやっていることではない」という認知・認識が成り立っているのだからそうなる。きちがい的な意地で、発狂してやることなのに、同時に 「自分がやっていることではない」という認知・認識が成り立っている。だから、絶対に、反省しない。反省できるわけがないだろ。自分がやったことじゃないのだから。「やった」と言われれば、おなじしくみで、無視する。おなじ認知方法・認識方法で無視する。なので、本人は、ほんとうにずっと、意地になってやっているのに、まったくやってないつもりなのだ。どれだけ言っても、自分がかかわっているということが、まったくわかってない状態だ。わかってない状態で、無視してやる。きちがい発言をする。このきちがい発言は、俺のこころを打ち砕く。我慢できない怒りを感じる。我慢できない怒りを感じて、殺したくなるのだけど、それを我慢する。そうすると、ぼくのこころがこわれるのだ。「楽しい」と感じられなくなる。
常に、きちがい的な意地で、騒音を出す、きちがい家族にたたられると、こうなる。そして、世間のやつは、「楽しめないのは自己責任」「楽しむ努力をしないやつが悪い」「ほんとうにつまらないやつは、つまらないと言っているやつだ」というようなことを言う。こいつらは、きちがい家族にたたられてない。けど、こいつらだって、そりゃ、不満があるから「俺だって……」ということを言う場合がある。けど、これは、「楽しく感じる心」を維持できるほどの不満でしかない。こいつらは、きちがい家族にたたられたわけじゃない。こいつらは、きちがい家族にたたられた生活を毎日、おくってきたわけじゃない。