やっぱり、ヘビメタでつらいなぁ。どうにもならない。
楽しむ能力をうしなったということがでかいんだよな。長期騒音の「負の効果」としてそういう効果がある。もう、これ、決まっている。ヘビメタ騒音にさらされながら、学校に通った六年と半年で、ぼくは、すべてをうしなった。とにもかくにも、くるしい。けど、これが、「感覚として」ほかの人にはわからないんだよな。そうすると、ヘビメタ騒音の影響を無視したうえで、その人の意見を言うということになる。これも、相手からすれば、「そうするしかないだろ」ということであり、俺が無理なことを言っているように思うかもしれないけど、いろいろと問題がある。もう、それは、佐藤(仮名)とのやり取りを再現したところで、話した。佐藤には、一般人の代表者として登場してもらった。ようするに、佐藤だけではないのである。ああいう反応をしたのは、佐藤だけじゃない。佐藤らは、気がついてないかもれないけど、俺を侮辱している。これも、侮辱にならざるをえないのである。
ともかく、いろいろな能力をうしなったんだけど、一番でかいのは、楽しむ能力をうしなったということかもしれない。睡眠回路を破壊されて、通勤する能力をうしなった。それも、ものすごくでかいことだ。能力の喪失としてでかいことだ。ちょっとだけ言っておくと、ヘビメタ騒音で通勤する能力がなくなるということは、ぼくにとって、あたりまえのことだ。そうならざるをえないのである。しかし、佐藤らのなかでは、騒音で通勤する能力がなくなるということは、事実ではない。「そんなことはないだろ」と思えることなのである。だから、ここでも、「ヘビメタ騒音『で』通勤する能力がなくなった」という文のなかにある『で』を無視する。無視して、通勤する能力がほんとうはあるだろという、前提で、ものを言ってくるのである。たとえば、「人間働かなければならない」ということだ。この場合の働くというのは、通勤して働くということなのである。当時、そうだった。いまは、通勤しなくても働けるけど、当時は、通勤しないで働くということは、不可能だった。もちろん、通勤して働いていた人が、会社を離れて、自宅で働くということは可能だった。けど、これは、普通に、何年間も、あるいは何十年間も働いてきた人が、独立して、自宅で働く場合に限られていた。そうじゃない場合はないのである。当時、働くというのは、通勤して働くということだった。たとえば、佐藤がそういう発言をしたとき、佐藤が、通勤をしないで働くことを想定して、そういう発言をしたかというと、そうではないのである。当時、働くと言ったら、会社で働くということであって、それは、通勤して働くということなのである。それに、相違ありませーーん。まあ、これだって、当時の常識といまの常識がちがうから、わざわざ、説明しなければならないわけだけど、発言の背後にある常識というものを考えなければならない。それは、言ってはないけど、発言の前提になるものだ。
きちがい兄貴が、きちがい親父のようにこだわって、こだわってこだわって、自分の思い通りにヘビメタを鳴らさなかったら、こんなことになってないんだよ。俺は普通に通勤する能力があり、通勤していた。通勤していたのだから、佐藤がそれについてとやかく言ってくるということはないということになる……。もちろん、現実は、ヘビメタ騒音で通勤す能力をうしない、通勤する能力がないので働けず、働いてないということについて、佐藤が、ヘビメタ騒音のことを無視した説教をしてくるということになる……。事実なった。こういうことなのである。ぼくの人生というのは、こういうことの連続だ。他人がなめてかかってくる。ヘビメタ騒音にやられなかったら、こんなことになってない。こんなことの連続でいいわけがないだろ。
じつは、「楽しむ能力」に関しても、同じようなことが成り立ってしまう。世間の、ヘビメタ騒音がなかった人と、ぼくのあいだには、へだたりがある。そのへだたりは、でかい。常に相手が、ヘビメタ騒音の影響を無視して、頭がおかしいことを言ってくるのである。これはもう、頭がおかしいことだ。無視するな!! 思考の力のかけらもないな。
まあ、なんのかんのと言ったって、「楽しむ能力」を喪失したのは、ぼくだ。そいつらじゃない。ぼくが、楽しむ能力を喪失してこまっている。ヘビメタ騒音『で』喪失して、こまっている。もとは、そうじゃない。繰り返しがどれだけ、でかいか。でかい効果を与えるか、ほかの人はわかってない。ほかの人の人生のなかで、そういうことがしょうじなかった。きちがい家族による、ヘビメタ騒音がなかった。長期にわたるヘビメタ騒音がなかった。ヘビメタ騒音の影響を受けて眠れない日が、何千日も続いてしまうということがなかった。なので、楽しむ能力を喪失してない。なので、本人のこととしては、まったくわからない。「なにいってんだ」と思う。「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」……。はぁーー……。「けっきょく、人生は一度きりだから、楽しんだもの勝ち」……。はぁーーー。「本当につまらないやつは、つまらないつまらないと言っているやつ」……。はぁーー。
これは、きつい。
そういうことを言っているやつだって、何十年もきちがい的にうるさい物理刺激を受け続ければ、睡眠回路がやられ、きつい暮らしをがんばってするようになる。そうなると、すべてが引きつって、楽しくないということがしょうじる。これは、不可避だ。ともかく、生物的な毒であれ、長期間の物理刺激であれ、睡眠回路と「お楽しみ回路」がやられてしまったら、だめなのだ。それを、行動療法的な「努力」、認知療法的な「努力」でどうにかしようというのは、まちがっている。どうすることもできないから。話がちがうんだよ。どうしてわからないのか? まあ、そういうことが、人生のなかで生じなかったからわからないんだろうな。比喩的に「お楽しみ回路」と書いたけど、海馬と視床下部あたりが、関係しているんじゃないかなと思う。たぶん、そこらへんに、生物化学的な『損傷』がしょうじていると思う。これもまた、比喩的な表現になってしまうけどなぁ。
まあ、ともかく、楽しむ能力を喪失したというのは、でかい。これ、でかい問題。