ヘビメタ騒音で働けなくなったと言っているのに、「そんなのは、あまえだ。人間は働くべきだ」と言ってきた層と、専門家の言うことを信じてワクチンを打ってしまう層は、おなじだと思う。ワクチンを打ってしまった人たちのなかには、「専門家の言うことを信じてワクチンを打ってしまう層」以外の人たちも含まれている。この人たちは、事実上、強制されて打ってしまった人たちだ。この人たちは、たすかるべきだと思う。なので、なるべくはやく、解毒をするべきだとぼくは思う。
けど、 「専門家の言うことを信じてワクチンを打ってしまう層」は、もう一度よく考えるべきだ。専門家の言うことを、無批判に信じるのではなく、自分の頭を使って「よく」考えるということが必要だ。
俺が、むりだと言っているのに、ヘビメタ騒音生活を経験したことがないやつが「むりなことはない」と勝手に決めつけ、働くべきだと言う。(その当時、働くにはどうしても、通勤が必要だった。)
ところで、ほんとうに、きちがいヘビメタにやられているときの気分や状態、きちがいヘビメタに前日やられたあとの、次の日の気分や状態について、こいつらはなにもわかってない。
どういうことがつみかさなったのかまるでわかってない。
俺がどれだけがんばって、生活してきたのか、まるでわかってない。
あの空間がまるでわかってない。
わかってないのに、勝手に「むりなことはない」「エイリさんはあまえている」「働けるはずだ」と決めつけ、もし、俺が、それをすれば、死ぬしかないということを押しつけてきた。すすめてきた。これは、ゆるせない。
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ほんとうに、こいつら、ヘビメタ騒音のつらさがわかってないな。こういう人生だったんだよな。
そりゃ、ヘビメタ騒音が一〇年間も毎日続けば、楽しむ能力もなくなる。
ところが、楽しむ能力がなくなると、楽しむ能力がないということでせめられるのだ。「楽しもうとしないからダメなんだ」とせめてくる。「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるのに、そういうことをしないからダメなのだとせめてくる。
これが、いまの、地球だよ。こんな地球で生きていておもしろいわけがないだろ。
まあ、きちがい家族のヘビメタ騒音にやられたのは、ぼくであって、こいつらじゃない。こいつらはやられてないので、楽しむ能力がある。だから、自分は楽しむ能力があるが、エイリさんは楽しむ能力がないという関係性が頭のなかに成り立っている。
その関係性は、じつは、「自分のほうがエイリさんより上だ」というような感情をうんでしまう。ようするに、「エイリさんは、自分より下だ」というような見方を作り出してしまう。
……ああっ、いちおう説明しておくけど、働くべきだと言った佐藤のようなやつ……の頭のなかにも……こういう関係性に関する思考が成り立っている。感じ方が成り立っている。見方が成り立っている。
きちがい兄貴にやられるとこういうことになってしまうのだ。だれだって、あれだけ長い時間、きちがい家族によって、自分が一番嫌いな音を、あの音のでかさで聞かされづけたら、こうなる。
どれだけがんばっても、感情が死ぬ。
楽しむ能力がなくなる。
それなのに、「えらそうに」。
これ、ほんとう、えらそうに!!
これ、ほんとうに、きちがい兄貴の態度とか、きちがい兄貴の認知・認識というのは、いっしょに住んでいる人しかわからない。きちがい兄貴にもわからない。きちがい兄貴の「わからなさ」というのは、普通の人の「わからなさ」をこえている。
きちがい兄貴は普通の人の「きちがい兄貴の認知・認識にかんするわからなさ」をこえて、「きちがい兄貴の認知・認識」についてわかってないのである。ほねがらみ。きちがい的な無視。いのちがけ。
この「ほねがらみ。きちがい的な無視。いのちがけ」というのは、親父もおなじだ。はっちゃっている。はいっちゃってたら、もうどれだけなにを言ってもだめなのだ。殺さなければならなくなる。
つねに、そういう問題を突き付けられる。勝手にやるわけだから、そうなる。
そういう態度で!勝手にやるわけだからそうなる。
やっている本人は「まったくつもりがない」ということになっている。
この「まったくつもりがない」ということを別の言い方で言うと 「ほねがらみ。きちがい的な無視。いのちがけ」ということになる。
「つもりがない」ということは、こういうきちがいにとって「やってない」ということとイコールなのである。感情的にイコール。認知・認識的にイコール。
だから、まるで自分がかかわってない状態を維持できる。本人のなかでは、「自分がやったことではない」「自分がやっていることではない」という認知・認識が成り立っているのだからそうなる。
きちがい的な意地で、発狂してやることなのに、同時に 「自分がやっていることではない」という認知・認識が成り立っている。
だから、絶対に、反省しない。反省できるわけがないだろ。自分がやったことじゃないのだから。
「やった」と言われれば、おなじしくみで、無視する。
おなじ認知方法・認識方法で無視する。
なので、本人は、ほんとうにずっと、意地になってやっているのに、まったくやってないつもりなのだ。どれだけ言っても、自分がかかわっているということが、まったくわかってない状態だ。わかってない状態で、無視してやる。
きちがい発言をする。
このきちがい発言は、俺のこころを打ち砕く。我慢できない怒りを感じる。我慢できない怒りを感じて、殺したくなるのだけど、それを我慢する。そうすると、ぼくのこころがこわれるのだ。「楽しい」と感じられなくなる。
常に、きちがい的な意地で、騒音を出す、きちがい家族にたたられると、こうなる。そして、世間のやつは、「楽しめないのは自己責任」「楽しむ努力をしないやつが悪い」「ほんとうにつまらないやつは、つまらないと言っているやつだ」というようなことを言う。こいつらは、きちがい家族にたたられてない。
けど、こいつらだって、そりゃ、不満があるから「俺だって……」ということを言う場合がある。けど、これは、「楽しく感じる心」を維持できるほどの不満でしかない。こいつらは、きちがい家族にたたられたわけじゃない。こいつらは、きちがい家族にたたられた生活を毎日、おくってきたわけじゃない。
そいつが、毎日、通勤して働けるということは、そいつが体験したことが、毎日、通勤して働けなくなるようなことではないということだ。レベルがちがう。いっしょにするな。できているのだから、できなくなるほどのことではない。
できているから、ひとに「こうするべきだ」と説教をするわけだろ。できなくなるほどのことを経験してないから、できるのではないか? できているということが、できなくなるほどのことを経験してないということを、意味しているのである。
個人的な力の差について言えば、ぼくのほうが力があったよ。ようするに、こういうことだ。たとえば、ぼくの忍耐力が一〇〇だとすると、佐藤(仮名)のようなやつらの忍耐力は一〇ぐらいなのだ。ぼくのほうが、一〇倍ぐらいは忍耐力がある。しかし、ぼくが経験したことが、一〇〇〇ぐらいの負担なのだ。佐藤は、一一の負担で、働けなくなってしまう。ぼくだから、ずっとやってきた。けど、きちがい兄貴の頭がおかしい攻撃がずっと続いたので、ついには、たおれた。 こういうことがわかってないのである。
環境を無視して、「できるか」「できない」かで、話をすすめやがって。あたまにくる。
こういうやつらはあまり深く物事を考えないので、専門家の言うことは正しいと判断して、なかみがよくわかってない薬を注入するために列に並ぶのだ。専門家の言うことは、専門家の言うことだから正しいという思考法には、問題がある。