ヘビメタの「引き裂かれ感」がすごいんだよな。いまも残っている。あれ、瞬間瞬間、つらい。だれもわかってくれない。
あんなのが続いていいわけがないだろ。
あんなのを、無視できるわけがないだろ。普通の人は、あんなのを無視できるわけがない」ということがわからない。もう、まったくわかってないね。
だいたい、きちがい兄貴はきちがい親父とおなじだから、「やめてくれ」と言われたら、血相をかえて、おこる。ところが、それが、わかってないんだよ。きちがい兄貴自身は、わかってない。
いかりと一体化して、おこったということがわからない状態なんだよな。
絶対の意地でやり続けるわけだけど、やり続けたという認識がまったくない状態ができあがっている。そういう、サイコパスなんだよな。
こっちが、こまったから、文句を言ったわけだけど、「文句を言われた」という記憶もない状態なんだよ。これが、つらい。
きちがいだから、息をするように、毎日、そうしている。
だから、殺さなければ、鳴りやまない状態というのを、つきつけられる。その場合、鳴っている時間だけではなくて、鳴り終わったあとも、つらい状態ですごすことになる。眠れないし、眠れないあいだ、楽かというと、楽ではないのだ。
そして、これまた、普通に、人に誤解される。「さぼっている」「あまえている」「そんなのが、通るわけがないだろ」ということになる。「そんなのが通るわけがない」というのは、自分はヘビメタを鳴らされているので、ヘビメタが鳴りやまなければ、遅刻はする……というようなことだ。「そんなのは、あまい」「お兄さんに言えばいい」というこたえが返ってくる。
それに対して「(兄貴に)言ってもだめなんだ」ということを言っても、相手は、納得しない。これは、佐藤のあることに関する反応に似ている。「ヘビメタ騒音で働けない」と(俺が)言ったときの、佐藤の反応とおなじだ。
きちがい兄貴ときちがい親父が、かわっているので、普通の人はわからない。きちがい兄貴ときちがい親父のことがわからない。「そんなひとはいない」「そんなことはない」という前提が成り立っている。
常に、こういうことが成り立ってきた……。
成り立ってきた人生なんだよな。不可避的にそうなる。ならざるをえない。父親が、兄貴と同じタイプのサイコパスだということは、いろいろなことに影響を与えている。ほかの人の「誤解」に関しても影響を与えている。
家に、ふたり、同じタイプのサイコパスがいるといこうとが、ほかの人にはわからない。それから、ほかの人は「家族なんだから、言えばわかってくれる」というような典型的な考え方をもっているのだけど、これも、誤解をうみだす。これ、どれだけ誤解をされるか、わかったものじゃない。
「家族だから(無視してやってもいい)」ということになってしまうのだ。もっとわかりにくいのは、本人がそのつもりがないということだ。「家族だから、無視してやってもいい」「家族だから、やったってやったことにならない」ということが成り立っているのだけど、それが、無意識の範囲内で成り立っているのだ。
だから、本人は、ほんとうにつもりがないということになる。けど、態度は、そういう態度だ。態度だけが突出しているのである。態度だけが突出しているので、実際にそういうふうにやっているのだけど、本人は常に「やってないつもりだ」というのが成り立ってしまう。だから、本人は、まったく自分が関係がない人のつもりでいるんだよ。
じゃあ、言えばやめてくれるのかというと、それは絶対にない。催眠術にかかったような、へんな、意地をはった状態で、やりきる。命がけでやりきる。だから、そのときやめさせようとすると、殺さなければならないのだ。これもわかってない。どれだけの意地がかかっているかほかの人にはわからない。わかってない。一秒だってやめたくないのである。
ほんの少しでもゆずってやりたくないのである。相手が言うように、ほんの少しでも、ほんとうに、ゆずるのであれば、くやしくてたまらなくて、爆発してしまう状態なのである。発狂して、死ぬか殺すかというということをしなければならない状態なのである。
「ゆずる」なてんことはない。
かりに、何万回も言われているから、ゆずるとすると……相手にとってまったく意味がない、自分の意地を落とし押したことを考え付いて、ゆずってやったことにしてしまうのである。
これが、親父の場合は、ハンダゴテだったり、机だったり、電球だったり、靴だったりするわけだけど、兄貴の場合は、ヘビメタ騒音なんだよ。絶対の意地でゆずらないし、ゆずらないということがわかってない状態だ。
きちがい親父のように「めっかち」になってわかってないのである。頭がおかしい目つきをして、発狂して、前のめりになって、からだをこわばらせて、わかってないのである。けど、そういう状態でわかってないということが、わかってない。(「めっかち」はぼくの造語)。
そして、わかってやらずに、自分の意地を一〇〇%押し通したといこうとがわかってない。怒っている状態もわからないし、おこっいてる状態で「やりきった」ということがわかってないのである。これは、あとで言っても、わからない。そのとき言ってもわからない。
あとで言えば「そんな状態だったのかな」というような反省があるかと言うと、ないのだ。
あとで言っても、おなじ反応が返ってくる。あとで言った場合は、「そんなんじゃない」という気持ちになる。その「そんなんじゃない」と言ってゆずらない状態が、「静かにしてくれ」と言われてゆずらない状態とおなじなのである。だから、つねにやっているのに、つねに自覚がないという状態になって、やりきる。
で、やりきったら、本人のなかではすんでいて、「相手がこまるからやめてくれ」と言ったことをやったという認知がないのである。言われたときは、興奮していたときだから、わからなかったけど、ちょっと時間がたって落ち着いたら、わかることなのかというと……それも絶対にわからないことなのである。兄貴のこういう態度は、親父のこういう態度とまったくおなじ。
絶対に認めない。
この、認めなさが、たとえば「やめてくれ」と言われたときの「認めなさ」とおなじなのである。だから、際限なく、そういうことが続く。
何回ぶつかったっておなじなのである。何万回ぶつかっても、一回目とおなじ反応が返ってくるのである。
こういう、地獄。
ほんとう、ほかのやつら、わかってないな。
こういう人間が、家族のなかにふたりいるんだぞ。そして、ひとりは、「保護者」なんだぞ。これが、どういうことなのかわかるか?
ひとから、誤解されまくりだ。
そういうきちがい的な保護者のもとで、育たなかった人が、普通に誤解する。そしてその誤解もまた、とけない。普通の人には、きちがい的な保護者がいなかったので、自分の体験を押してわかっているわけではないのである。自分には体験がないから、まったくわからないのである。
たとえば、佐藤は、ぼくの兄がそういう性格だということを認めないのである。たとえば、佐藤は、ぼくの父がそういう性格だということを認めないのである。認めないで、えらそうなことを言ってくる。自分だって、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にさらされ続けた毎日だったら、働けなくなるのに、そういうことがまったくわかってない。
ヘビメタ騒音のことを説明しても、わからない……佐藤のような、やつには、わからない。どうしてかというと、佐藤はきちがい兄やきちがい父にやられなかったからだ。家のなかにそういう人間が、ひとりいなかったからだ。だから、感覚的には「そんなことはないだろう」というのが成り立っている。そういう感覚が成り立っているところで、俺の話を聞くと、俺がまるでさぼっているように思えるのである。だから、説教したくなる。こういう、世界。
ゆるさんよ。ゆるさんよ。