おもしろいわけがない。おもしろいわけがない。どうして、こうなる? おまえ、どれだけ。おまえ、どれだけ。午後七時四五分。きちがいヘビメタが鳴っている時間だ。どれだけ、「やめろ!!!やめろ」と兄貴の部屋に怒鳴り込んでも一分だって、一秒だってやめてくれない。それなのに、やったつもりがないのだ。これは、きちがい親父の態度とおなじだ。きちがい親父の態度ときちがい兄貴の態度がおなじなんだよな。そして、この態度に関しては、「いっしょにくらしたひと」しかわからない。言っただけで、理解してくれた人なんていないよ。やっぱり、ちがうんだよ。実際に、一緒に暮らしている人と、一緒に暮らしている人が言った話を聞いた人では、認識がちがう。だから、きちがいヘビメタ騒音についてぼくがどれだけ説明したとしても、実際に、人生のなかで、ぼくとおなじぶんだけ、きちがい的な家族にやられた人じゃないとわからないんだよね。そんな人はいないので、だれもわかってくれないということになる。基本的に、わからないので、誤解をしてしまうのである。きちがいヘビメタがあれだけ続いていたら、どれだけがんばっても、通勤ができなくなってしまうのである。ところが、話を聞いている人たちにとっては、ヘビメタ騒音で、通勤ができなくなるということが、わからない。わからない以上、事実ではない。そいつらは経験してないし、考えのなかで、ヘビメタ騒音なるものがそれだけの影響を与えるということを認めないのであれば、ヘビメタ騒音なるものは、通勤ができくなるようなものではないのである。だから、「人は働くべきだ」とか一般論としては正しいけど、ぼくを前にして言うのであれば、まったく正しくないことを、正しいことだと思っていってしまう。こいつは、ぼくのことを、下に見ている。日本では、無職だと言ったとたんに、下に見られる。そして、下に見てあたりまえだと思っているのだけど、「下に見ている」とぼくがそいつに言えば、「下に見てない」と言う場合が多い。下に見ているというのは、存在としてばかにしているということだ。この僕を……。ヘビメタ騒音『で』できなくなったと言っているだろ。けど、そいつは、愚かにも、ヘビメタ騒音でできなくなったということを、認めないのである。こんな屈辱はない。
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もう一度、この人生をやりなおしてくれと言われたら、そりゃことわるよ。けど、設定をかえられるなら、ちがう。ヘビメタ騒音が鳴ってなかった場合の人生を経験してみたい。……みたい。……みたい。そりゃ、生まれたときから……生まれるまえから、きちがい親父の性格には、悩まされてきた。けど、きちがいヘビメタ騒音が鳴りださなかったら、ぜんぜんちがう。そりゃ、佐藤のようなやつにだって、見下される必要がないわけだから……。こいつら、人が無職だと思うと自動的に見下してくる。しかも、見下しているという自覚がとぼしいのである。ばかである。こういうやつばかりだったなぁ。……この世は……。……日本は……。働いてないということだけで、どれだけ、ばかにされたか……下に見られたか……えらそうなことを言われたか。
ヘビメタ『で』できないと言っているだろ!!!!
こういうことも理解できないばかにばかにされる、ばかに、ばかにされる。きちがい兄貴は、知らんぷりだよ。これ、どれだけ言ってもわからないんだよな。何度も言うけど、ヘビメタ騒音がはじまった日から、佐藤みたいな他人との、トラブルがある。もちろん、働くというような問題じゃない。小学六年生だからな。けど、ヘビメタ『で』できないのに、ヘビメタでできなくなったということを、認めない他人がいるんだよ。他人という存在が、うっとうしくなる。いやなものになる。
これは、きちがい兄貴に見せるための文章であり、一種の遺書なので、ずっときちがい兄貴にわかるように書いてある。けど、わかるわけがないんだけどね……。わかるような脳みその持ち主だったら、最初の日にやめてくれている。きちがい親父とおなじで、自分がやりたいことは、発狂的な意地でやってしまう。で、発狂的な意地でやったことに関しては、いつも、「やったつもりがない」のである。この、きちがい感覚……。どんだけこまるか? どんだけこまるか? 他人は一切合切わからない。
ハンダゴテ事件のことについてぼくがずっと書いているのは、きちがい兄貴が、わかりやすいように書いているのである。俺とおやじとのことではなくて、親父と兄貴のことを書くことで、きちがい兄貴の態度について、きちがい兄貴にわかってほしいのである。まあ、もう、むだだけどなぁ。どれだけ積み重なっているか……。そして、積み重なりを、無視しやがるのである。かかわりがないと思っている。毎日かかわりがないと思って、やる。どれだけやめろと言っても、意地になってやる。発狂してやる。けど、やってないつもりなのである。「自分はやってないから……一分も鳴らしてないからそんなことは知らない」という態度なのだ。きちがい的な意地で鳴らしていながら、そういう態度なのだ。で、こういう態度は、そういう認知・認識からできあがるのだけど、きちがい兄貴はまちがいなく、こういう認知・認識をもっているよ。
きちがい親父は、ハンダゴテさえ押しつけてしまえば、それで、関係がない人になっていた。どれだけ、きちがい兄貴が「ハンダゴテは使えない」と言っても、「使える使える」と発狂して認めない。本人が発狂したら、もう、関係がない人になっている。どれだけ何を言ってもわからないままだ。関係がない人になっているから、そうやって、一度押しつけた相手が、また「このハンダゴテは使えなかった」ということを言ってくると、発狂してしまうのである。発狂して発狂して発狂して、認めない。で、本人が発狂したら、本人のなかでは「すんでいる」。押しつけたままだ。
ちょうどこれとおなじことが、ヘビメタ騒音でも起こった。
きちがいヘビメタ騒音なしの人生がほしい。俺の望みというのはけっきょくそれだけなんだよな。ヘビメタ騒音がないなら……ないという条件が成り立つなら……あとは、自分でどうだってできる。きちがいヘビメタ騒音がない世界なら、自己責任でも、いい。これ、どれだけのことを言っているのか、きちがいヘビメタ騒音がなかった人には、まるでわからないんだろうな。自己責任、自己責任。自己責任教も、人を、侮辱して傷つける。自己責任なんて(他人に)言ったやつは、刺されてしまえばいいんだよな。その他人に、「自己責任だ」と言ったやつが、刺されればいい。それだって、自己責任だろ。刺されたのは、自己責任だ。ちがうか?
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