どーーしても、不愉快なことを思い出してしまう。フラッシュバックする。ひとつひとつは、小さなことだけど、どうしても、発狂的にむかつく。腹が立つ。
連鎖的なんだよな。なんでもない広告を見ただけで、あることを思い出したりする。それまで忘れていた、いやな出来事だ。もう、こんなの、いっぱいありすぎていやだな。
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じつは、禁コーラだけは、続いている。炭酸飲料を飲まないようにした。人工甘味料も、砂糖も避ける。けど、ほかのもので、砂糖は接種している。けど、量は明らかに少なくなった。ジュースが好きだったんだよ。
いまも、ちょっと外に買い物に行くことを考えたんだけど、外で、コーラを飲むのがうまい。公園とか、二階建てになっている駅の二階部分の出入り口とか、歩きながらとか、わりと、うまい。風景を見ながら飲むのがうまい。
あれはあれで、楽しみだった。けど、そこで思い出すが、やっぱり、ヘビメタ騒音とヘビメタ騒音で発生した人間関係のトラブルなんだよね。
そりゃ、ヘビメタ騒音で「たちばがわるくなる」。これは、どれだけがんばっても、不可避的にそうなる。ずっと、家に帰ったあと、騒音にさらされ続けると……この世で一番嫌いな騒音にさらされ続けると……意図とは関係なく、そうなる。ぼくがかりに、トラブルを起こさないように、どれだけ気を使ってがんばっても、ヘビメタ騒音影響で、どうしても、トラブルが発生する。
それは、わかりやすく言えば、佐藤(仮名)とのトラブルみたいなものだ。騒音で、働けなくなった……。騒音で働けなくなったにしろ、他人から見れば、働けるように見えるとする。実際、働けるように見えるのだろう。
けど、ぼくは、当時、通勤して働くというのはどうしてもできないことだった。それは、週に一回だろうが、月に一回だろうがむりなんだよ。この意味がわかるか? 週に一回ではなくて、月に一回でも、むり。
「月に一回」でもむりということの意味がわかるだろうか? わかるわけがないか。友達からも、佐藤からも、「週に三回ぐらいのバイトを入れて、からだをならしていけばいい」ということを言われた。
これは、ぼくに、死んでくれと言っているようなものだ。
この人たちは、ぼくとおなじ経験がない。ヘビメタ騒音生活の経験がない。ヘビメタ騒音生活の一日が、どれだけくるしいかわかってない。数千日続いた場合、数千日の影響が、どれだけ残るかわかってない。
ほんとうに、週、三回のバイトでも「死ぬしかない」という状態になる。だいたい、一か月で「死ぬしかない」という状態になるけど、それを、むりして、二か月続けても、くるしさが増すだけで、からだが慣れるというとがないのである。三か月づけても、からだがなれるということがないのである。
それは、超・超・超・緊張状態ですごした、小学六年生からの毎日が影響している。
これ、どれだけ、くるしいか、経験してない人はわかってない。毎朝、どれだけ死にたい気持ちで、体をひきずって、学校に行ったかわかってない。学校に行けたなら、だいじょうぶだろ」と思ってしまうらしい。ばーーか。
そういう状態で足かけ七年間も学校に通っていたから、「もうだめだ」という状態になったのだ。そういうことが、きちがい野郎は……じゃなくて、普通の人一切合切、わからない。
自分で経験したことじゃないとわからない。きちがいの親がいるところに生まれて、きちがいの兄が、きちがい的な意地でヘビメタを鳴らすということを、毎日、経験したことがない人には、わからないことなのである。
これ、きちがい兄貴だけではないのだ。きちがい親父のベースがある。
これ、一家にふたり、サイコパスがいるということが、わからないのだ。普通の人には、わからない。こいつら、普通の人は「言えばわかる」「言えばわかってくれるだろ」と普通に思っている。
そうじゃない。
こいつらの、現実認識がおかしい。そもそも、普通の人の……うちの状態に関する認識がまちがっているのである。うちの状態というのは、エイリのうちの状態だ。これが、わかってない。まちがった認識をしている。うちの家族について、普通の人はまちがった認識をもっているのだ。こんなの、ない。
しかも、まちがった認識をもっているとは思ってないし、まちがった認識をもっているということを、こっちがいくら説明しても、自分のこととしてわからないのだから、まちがった認識をもっているままなのである。自分のこととしてわからないというのは、経験をとおしてわかったことじゃないから、わかってないということだ。言葉でしか、理解してない。表面的なことしか理解してない。理解した人ですら、そうだ。
表面的な理解さえしない人が、非常に多い。表面的な理解をしてくれた人ですら、ようするに、きちがい家族にかこまれて生活したわけじゃないから、そういう人間……きちがい家族が与える影響のでかさというのが、自分のこととしてわからないままなのである。
それなら、なんとだって言える。それなら、なんとだって言える。
ああ。けっきょく、きちがい兄貴がきちがい的な意地でヘビメタを鳴らすと、そういうことがなかった人から見て、俺が、意気地なしに見えるのだ。そして、愚痴を言う人に見えるのだ。
こんなの、きちがいヘビメタが鳴らなかったら……普通の人とおなじような家族に囲まれててすごしていたら、なかったことなんだぞ。そもそも、発生しなかったことなんだぞ。