よごれた部屋のなかでいきている。相当に、やる気がしない。部屋の掃除ではなくて、家の掃除だけど、家の掃除をすると、顔をダニに刺されるので、いやだ。ほかのことも、やりたくない。かろうじて、ご飯を食べて生きているという感じだ。ごみは、捨てなきゃならないゴミがだいぶたまった。今日は、ごみを出す日だったんだけど、出せなかった。眠ってた。
さっき、起きて、カップそばを食べたあと風呂に入って、出てきたところ。
ほんとうに、なにもかもがめんどうで、かろうじて、掃除をぬかした必要最低限のことをしているという感じだな。歩いているときも、ときどき、たちどまって、空を見上げてしまうようなところがある。長期騒音と、長期騒音の影響について考えている。人生ぜんぶが、長期騒音だった。
そして、これ、このブログでは『生まれの格差』ということばを使って書いていることなんだけど、生まれの格差と地合いについて考えている。これは、努力論とか才能論とか労働論について考えるときは、常に意識していなければならないことなんだけど、たいていの場合、たいていの人は、無視してしまう。「あったってないこと」なのだ。
あるいは、「あったとしても、それほど影響をあたえないこと」なのだ。そんなことであるはずがない。『地合い』のうえに、努力論、才能論、労働論が成り立っているわけで、『地合い』を無視するわけにはいかない。
ここで言う、『地合い』というのは、たとえば、悪が社会を支配しているのか? 善が社会を支配しているか? ということだ。社会の基盤。基盤の基盤。基盤の基盤を無視して議論をしたってしかたがない。
ところが、生き方にかかわる部分に関しては、基盤の基盤を無視してしまうのである。労働論と書いたけど、労働観なんて、そのさいたるものだ。