ほんとう、ヘビメタ騒音にやられて、むなしいだけの人生だな。いいこと、なかった。くるしかった。ずっとくるしかった。いま、夜が明けて、朝になった。闇から光の世界になった。けど、ぼくのこころは、ヘビメタ騒音でくるしい。あの雰囲気が、ぬけない。朝の雰囲気というのは、ヘビメタ騒音の雰囲気だ。これ、どれだけほかの人に言ってもわからない思うけど、数千日の繰り返しがある。その数千日の学習の末に、獲得してしまったものだ。薬なんかじゃ、なおらない。もとの世界に到達できない。元の世界というのは、ヘビメタ騒音にやられなかった場合の、普通の世界だ。普通人たちには、普通にある、普通の世界が、ぼくには、ない。ヘビメタ騒音にやられて、毎日自殺したい気持ちで、動かないからだを無理やり動かして、はりつめた気持ちで、学校に行くのである。帰ってきたら、ヘビメタが鳴っていて、どれだけ言っても、一秒だってやめてくれない。あいつが眠る前まで続く。こっちは、そのあいだに、平日は夕方から、日曜祭日は、朝から、あいつが眠る前まで、ヘビメタ騒音を聞かされ続けて、その時間も、そのあとの時間もめちゃくちゃになっている。どれだけ、希望をもとうとしても、どれだけ、普通に頭を働かせようと思っても、鳴らされたあと、……鳴らされ続けたあとですら……まったく頭が働かない状態になる。「うつ」とか「憂鬱」という言葉では、表現できない、強烈な「うつ」や「憂鬱」がおそってくる。これは、「疲労」と同じで、どれだけ、「疲労を感じないようにしよう」と思っても、むりだ。土台がむりだ。人間の体はそういうふうにできている。きちがい兄貴レベルの騒音を毎日、聞かされて、生きてきた人間というのが、ぼくのほかにいないのである。だから、ぼく以外の人たちは、その人たちの経験した騒音をもとにして、ぼくが経験した騒音について考えるのである。毎日の持続……ということについて、考えがぬけている。せいぜい、テレビの音がうるさいとか、ステレオの音がうるさいとか、幼稚園や小学校がうるさいといった騒音のことしか考えない。あるいは、線路の横でうるさいということしか考えない。これ、ちがうんだけど、どれだけ俺が「ちがう」と言っても、ほかの人たちは、ちがいを認めない。どうしてなら、その人たちが、経験した騒音ではないからだ。ひとことで言うとそうなる。そんなら、俺(エイリ)だって、自分(ほかの人たちにとって自分自身)の経験した騒音を経験してないじゃないかと言うかもしれないけど、ぼくは、ほかの人たちが、経験した大抵の騒音を経験している。ヘビメタ騒音がはじまるまえに経験している。「そんなんじゃない」のである。「ぜんぜん、ちがう」のである。こんな、ハンディない。しかも、家庭環境が複雑で、ほかの人には、逆立ちしても理解できない原理がある。これをうみだしているのは、きちがい親父なのだけど、きちがい親父の狂い方というのも、普通の人の狂いかたとはちがっていて、ほかの人には理解できないのである。あるいは、くるってない普通の人とも、まったくちがう状態なので、くるってない普通の家族と暮らしてきた人には、逆立ちしてもわからない状況や状態というのがあるのである。これの、わからなさが、また、ひどいのである。これ、ぼくは普通の人自分の距離を感じる。このことについて、世間の、普通の人の理解度がもーーれつに、低い。ほとんど全部の人が、想像の範囲外だということで普通に無視してしまうのである。俺の状況や俺の状態について無視してしまう。普通の人にとって、俺は、へんなことを言っている人……よくわけがわからないことを言っている人になってしまうのである。「そんなのは、言えばいいのに」と思ってしまうのである。きちがい親父を知らないから。きちがい親父の感覚が、おかしい。その感覚のおかしさについてどれだけ、普通の人に説明しても、普通の人はわからない。俺が、へんなことを言っているようにしか、聞こえないんだよな。兄貴も、きちがい親父とおなじなので、兄貴のことも、普通の人にはわからない。普通の人というのは、普通の家族に囲まれて、そだってきた人のことである。きちがい兄貴やきちがい親父が、特殊すぎる。普通の人が考える「きちがい」とは、また、ちがった種類のきちがいなのである。きちがいのなかでもかわっているのである。ほかの人が理解することができないように、かわっている。あまりにもかわっているので、ほかの人は、理解できない。言ってみれば、普通の人が考える「きちがい」とも、まったくちがった「きちがい」なのである。そして、迷惑をこうむる人、影響を受ける人というのが、家族、限定なのだ。「よそ」では、きちがい的な側面を見せないで、普通の人のようにふるまうのである。これは、もう、自己催眠のレベルで、本人は、「つかいわけている」つもりがない。まったくない。本能ではないけど、表現するなら、本能できりかわってしまう。「うち」のなかにいるときの態度と、「そと」にいるときの態度がぜんぜんちがうのである。そして、本人は、特に、「うちの態度」と「そとの態度」をきりかえているつもりがないのである。ぜーーんぜんない。まったくない。ごく普通に、完全に、きりかわる。本人が、意識して、「うちでこうしよう」と思っているのではないのである。「そとでは、我慢したけど、うちのやつらに関しては、こういうたいどでいい」と、意識的に思って、態度をきりかえているわけではないのである。さらに、これは、「態度」だけではなくて、全体的な「認識システム」の問題なのである。これ、態度だけじゃなくて、認識システム自体が、きりかわってしまう。だから、本人は、強情にやっているのに、まったく気がつかないと行こうとになってしまうのである。この「強情」というのも、普通の人が理解できないレベルの「強情さ」だ。で、やっている本人が、普通の人とおなじように、理解してないのである。まったく理解してない。だから、「きりかわった態度」だけが「つきでる」状態になってしまうのである。ごく普通にそうなる。本人が、態度をきりかえようと思ってそうしているのではないから、そういう態度でやったことは、全部が本人にとって「やったってやってないこと」なのである。これが、ほかの人には理解できない。本人も、理解してないけどな。都合が悪くなれば、全否定だ。普通に記憶がある人なら……記憶能力がある人なら……絶対におぼえていることも、ガン無視してしまうのである。そういう、日常なのである。あんだけ、意地をはってやったことを、わすれるはずがないのである。この忘れ方がひどくて、もう、やり終わった瞬間に、やってないことになっている。やり終わった瞬間に、自分には、関係がないことになっているのである。この、態度、ほんとうに頭にくる。きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定する。そして、きちがい的な意地でやっているときの態度と、きちがい的な意地で否定している態度がまったく同じなのである。こーーんなの、ほかの人にわかるわけがない。しかも、本人は、盲点になって、まったくわからない状態だ。台風の目のように、本人は、まったく関係がない人としてふるまうのである。この態度全体……。プロセス全体……。ほんとうに頭にくる。