あと、3年か4年のいのちだと思って、行動しないとやばいなぁ。俺の場合、父親による虐待と、兄の騒音で、人生がくるっている。なにをするにしても、そこからの出発になる。兄の騒音のほうがでかいのだ。父親の虐待なんかより、兄の騒音のほうが1兆倍ぐらい、でかい。そのくらいに、影響を与えている。他人は、騒音の影響を無視したり、過小評価するので、「いま現在」ぼくが、ヘビメタ騒音の影響で苦しんでいるということを無視してしまう。「終わった騒音なら」「終わっているので影響がない」と思ってしまうのだ。この、屈辱。「そんなんじゃないから、こまっているのに……」。俺は、影響がないと思っている他人の発言に対して、そう思う。けど、「そんなんじゃないからこまっているのに」とその他人に言っても、他人は認めない。「なんだ、そんなの」と思ってしまう。他人は、きちがいヘビメタを鳴らされた期間がない。同じ体験をしてない。一日だけでも、どれだけヘビメタ騒音を浴びせられて、くるしいか、経験的にわかってない。それが100日、1000日、2000日、3000日、4000日、5000日、つみかさなったら、どうなるか、経験的にわかってない。経験的にわかってないから、本人の、ちょっとした騒音体験をもとに、おれのヘビメタ騒音について考えてしまう。その人たちにしてみれば、そういうことでしかない。
「楽しんだもの勝ち」とか言える状態じゃない。毎日毎日、ヘビメタ騒音が続いて、楽しく感じる回路というものをこわしてしまうので、そんなことは言えない。しかし、人生は有限であり、いつか死ぬということがわかっている。それならば、なるべく良い面を見て、楽しんだほうがよいのではないか……。これは、一理ある。しかし、一理しかない。それは、楽しもうと思えば、楽しめる人にとっては、真実だ。しかし、楽しもうと思っても、もう、どーーやっても楽しめない人にとっては、真実じゃない。楽しめないからだ。真実じゃない。そして、「楽しもう」という気持ちが、はてのない、憂鬱をうむのだ。破滅破綻をうむのだ。これも、毎日毎日、あの騒音が続いた人じゃないとわからないと思う。だから、そういうことを考えると、普通の人とぼくとでは、見ている地平がちがうということになる。意見があわないということになる。普通の人というのは、手短に言えば、きちがい家族によって、頭がおかしいやり方で、ずっとずっと、ヘビメタ騒音を聞かされたことがない人たちのことだ。この人たちとは、もう、ベースがちがう。ぜんぜんちがう。生命体としてまるでちがうのだ。