『人に親切にする』って、たとえば、どういうことなのかということを考えてみる。
たとえば、迷子になって困っている人に道を教えてあげる。
たとえば、誰かが落としたものを、拾って「落としましたよ」と言って、渡す。
たとえば、誰かが落としたものを、拾って、警察に届けてあげる。
たとえば、誰かが「それをとって」と言ったから、とって渡してあげる。
たとえば、だれかが「肩がこった」というので、その人の肩をもんであげる。
たとえば、道をゆずってあげる。
たとえば、重いものを持っている高齢者に声をかけて、重いものを持ってあげる。
そういうレベルのことなのではないだろうか。
家族や同僚といった身近な人に、ちょっとした親切をしてあげるということだろう。見ず知らずの、ほんとうにこまっている人に直接、継続的に親切にしてあげるということを、じつは、含んでない。
恵まれたところに生まれて、恵まれた生活をしている人は、自分がどれだけ恵まれているかわかってない。
自分を中心にして考えれば、自分は普通なのだ。
そして、ほんとうにこまっている人に関しては、無視してしまう。ほんとうにこまっている人は、彼らの生活圏のなかに入ってこないのだ。たまたま、道に迷っていた人が、道を聞いてきたので教えてあげると言った場合は、もちろん、道に迷っていた人が、底辺の人で、道を教えてあげた人が恵まれた人である場合がある。
しかし、そういう例外をのぞけは、恵まれた人が底辺の人に親切にすることはない。そもそも、生活圏がちがうので、出あわないのだ。
そして、出会った場合には、「役職」をとおして出会っているので、プライベートな問題に関しては、話し合うということがない。例外を除けば」と書いたけど、その例外の特徴は、「一回きりですむ」ということだ。
継続的にずっと親切にしなくてもよいのである。
一回の親切で、親切にした気持ちになることができる……これが、重要な要素だ。
すでに恵まれた人は、恵まれた人に囲まれているので、トラブルに巻き込まれることが少ないのである。親切にしてあげたことで、トラブルに巻き込まれることが少ない。そして、相手も、恵まれているので、「そこのところはわかっている」という場合が多い。
ようするに、恵まれた人のまわりには恵まれた人がいて、一回きりの親切をした場合、その一回の親切が終わったとき、親切にした人がいい気分になれる(幸福な気分になれると)ということでしかない。
たとえば、お金の貸し借りにしても、底辺だと問題が発生しやすいのである。お金がなくてこまっている人にお金を貸してあげることは、「人に親切にする」ことになるのだろうか? ならないのだろうか?ということを考えたとする。
一般的には、「親切にしたことになる」と思う。
それはそうだろう。おカネがなくてこまっている人は、こまっている人だ。困っている人がまるまるをくれと言った場合、あげるのが、親切にすることだ。困っている人がなにかをくれと言ったにもかかわらず、あげないというのは、親切にしたなかったということになる。
しかし、おカネを貸してくれといってきた人に、おカネを貸したのに、おカネが返ってこなかったという場合を考えてみれば、おカネを貸して親切にしてあげたにもかかわらず、けっきょくは、不愉快な思いをすることになるのである……おカネを貸した人は。お金を返さないのに、何回もおカネを貸してくれという人だっている。この世にはいる。そういう人は、返さずに、何回も何回も、金を貸してくれと言ってくる。何回か金を貸してあげたあと、「金を返してくれなければ、おカネは貸してあげない」と言ったら、その金を貸してくれと言ってくる人が「けち」と言って怒ったとする。
こういうトラブルがあった場合、ほんとうに、おカネを貸してあげたことは、その人に親切にしたことになるのだろうかという問題がある。こういう話を聞けば、「そんなのはていよくぼっったくられているだけ」「そんなのは、利用されているだけ」と思う人がいるかもしれない。
「親切にした」ことでトラブルに巻き込まれることがあるし、「親切にした」ことでトラブルが発生する場合もある。
しかし、恵まれた人は、「親切にすればしあわせになる。これは絶対に正しい」と言ってしまうのである。これは、その人の親切が、まわりにいる恵まれた人に対する(継続的ではない)親切なのでそういうことが言えるのだ。生まれたときから恵まれている人は、まわりにいる人も恵まれている人なので、親切にすることで、トラブルに発展するということを経験することが少ない。
また、恵まれた人にとってみれば「人にあたえることでしあわせになる」ということも、真実なのである。しかし、これも、直接的に与える場合は、身近な人に限られていて、しかも、一回ぽっきりで終わるようなことなのである。
間接的に与える場合は、もちろん、宗教団体や慈善団体に寄付をするということが含まれている。そして、貧しい人にも間接的に与えれば、あたえたことになると言うことができる。
しかし、直接的か間接的かということは、じつは、本質的な問題なのである。あたえるものを持ってない人、あるいは、持っているものが少ない人は、あたえることで、しあわせにはならないのである。しかし、裕福な人は、そういう条件を無視して「あたえれば幸せになる」と言ってしまう。
そして、「金額の問題」や「ものをあたえるということに関する問題」を指摘されれば、無形のものでもよいということを言いだす。つまり、おカネやモノをあげなくても、親切にしてあげるだけで、あたえたことになるというようなことを言いだすのだ。
しかし、親切にしてあげるということには、問題が含まれている。ぼくがずっと言ってきたことなので、省略。
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ようするに、恵まれた人が「人に親切にすれば幸せになれる」と言った場合、ごく限られた範囲では、そういうことも発生しうるということしか言ってない。しあわせになれる」と言っても、そのとき、しあわせを感じたという話にすぎない。不幸な状態でくらしている人は、たとえ、親切にされても、不幸な状態のまま暮らすということになる。どうしてかというと、その親切というものの、中身がちがうからだ。けど、「親切」という言葉を使って、さまざまな具体的な内容を一緒くたにあつかうことで、ある種の、印象操作をしているのである。悪意はないのだろうけど、これは、すでに不幸な生活をしている人にとっては、「だまされた」と思えるような話なのである。で、その主観は、正しい。
恵まれた人は、恵まれない人に、継続的に、直接的に、親切にし続けることがない。これは、決まっている。かならず、寄付などの間接的な方法になるし、たとえ、ランダムに親切にしたとしたとしても一回きりの関係になる。寄付の場合は、末端に届かないという問題と、社会全体の貧富の差を改善するものではないという問題がある。これは、一種の免罪符だ。そして、「うら」がある。手放しに、喜べるものではない。貧富の差を「より固定するもの」として機能してしまうのである。
さまざまなトリックが仕掛けられているので、恵まれた人が「人に親切にすればしあわせになれる」と言った場合の問題点が、わからないようになっている。