しあわせな人が語る、幸福論。まるで、マリーアントワネットが農民に説教しているみたいだぞ。がせねた。がせねた。うそ。うそ。ニセ情報。こんなのない。こんなのは、ない。これ、ほんとうは、言っていることがずれている。
しあわせな人は、それをやったから、不幸な状態からしあわせな状態になったわけじゃないのだ。最初から、恵まれたところに生まれて、しあわせなんだよ。
それが、わからない。
それが、わかってない。
普通だと思っている。
当たり前だと思っている。
だから、「ない」人の状態がわからない。状態がわからないのだけど、知識としては、わかるということになる。たとえば、「おカネがない状態だ」ということがわかるという意味で、わかるということだ。
けど、ほんとうは、経験してない。
きちがい毒親がどういうやり方で、子供を虐待するかわかってない。わかってないんだよ。話として、わかっている場合がある。
けど、その『わかっている』というのは、ぜんぜんちがう。
親の稼ぎが少ない状態であって、なおかつ、頭がおかしい親に『たたらている状態』というのがわからない。なので、見当はずれなことを言う。
『ない』と『ある』が、ひっくり返るけど、パンもケーキもない人に、「パンがなければケーキを食べればいい」ということを言ってしまう。『ない』と『ある』が、ひっくりかえるというのは、たとえば、パンがあることは、プラスだけど、きちがい毒親がいることはマイナスだということだ。
「ある」「いる」「もっている」という言い方だと、言い方の対称性がそこなわれるので、「存在する」という言い方にかえるとパンが存在するのは、(しあわせな生活にとって)いいことだけど、毒親が存在するのは(しあわせな生活にとって)わるいことなので、パンと毒親では、意味合いがひっくりかえる。パンが存在しないこと(非存在)は、こまることだけど、毒親が存在しないこと(非存在)は、とてもいいことだ。「存在しない」ということの意味合いがひくっりかえっている。
「まるまるをすれば、幸福になる」というタイプの幸福論はみんな、詐欺。
これ、ほんとうに、「波動水を飲めば、幸福になる」と言っているのと同じレベルのこと。もっとも、ものの受け渡しがなく、幸福論者が言っていることは、形がないことなので、詐欺だとは認められない。
けど、言っていることは、同じレベル。
どういうことかというと、たとえば、「ラーメンを食べればしあわせになる」と言う人がいたとする。
その人は、ラーメンが大好きで、ラーメンを食べているさいちゅうと、ラーメンを食べたあと、しあわせを感じる。
だから、この人にとっては、『ラーメンを食べればしあわせになる』ということは、正しいことだ。
けど、このラーメンが好きな人ですら、パワハラ上司のもとで何時間も何時間も残業する日が、何年間も続けば、だんだん、ラーメンを食べても、しあわせを感じないようになってくる。
疲れはてた体で、ラーメンを食べた場合、たしょうの快は感じるかもしれない。たしょうの快を感じるとしよう。毎日、くるしいけど、ラーメンを食べたときだけは、たしょうの快を感じる。
けど、全体的には、不幸なのである。
朝、起きたくないという状態になってしまう。さらに続けば、うつ病になってしまうだろう。うつ病なのに、しあわせ? 毎日、死にたい気持ちで暮らしているのに、しあわせ?
毎日死にたい気持ちで暮らしているけど、ラーメンを食べたときだけは、たしょうの快を感じるということはある。あるけど、それだって、いつまで続くかわからない。あれだけ好きだったラーメンがうまく感じなくなってしまうかもしれない。
しあわせになるには、ラーメンを食べるのではなくて、パワハラ上司がいないところで、適切な量だけ働くということが必要になる。
しかし、それができなかったら、どうだ?
ふしあわせだと感じるだろう。
そのとき、パワハラ上司にたたられたことがない、しあわせな人が「ラーメンを食べれば、しあわせになる。これは絶対に正しい」と言ったら、どう思うか?
『ラーメンを食べても、この生活をしていたら、しあわせにはなれない』と感じるだろう。
しあわせではない生活をしていても、ラーメンを食べたとき、たしょうの快は感じるかもしれない。……しかし、「Xをしたとき、たしょうの快を感じる」ということと「Xをしたあと、しあわせな生活がずっと続く」ということはちがう。
たとえばの話だけど、この、パワハラ上司にたたられて、一日に何時間も何時間もサービス残業をしている会社員は、仕事をやめれば、しあわせ感が増大するかもしれない。
パワハラ上司にたたられるしかない社員生活をしているよりも、リタイアして、そういう『負の刺激』から自分を守ることができれば、パワハラ上司にたたられている生活よりは、しあわせを感じるかもしれない。あるいは、しあわせを感じないかもしれない。それは、すでに、「しあわせを感じる回路」と言うべきものが破壊されているからだ。
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たとえば、医者として生計を立てている人がいるとする。忙しすぎるのでしあわせ感が、薄れていたとする。
ある日、リタイアすることにして、リタイアした。リタイアしたら、多忙な毎日が終わり余裕がある毎日が始まった。その元医者には、しあわせに暮らしているという実感があるとする。その場合「人に親切にした」という話はどこにも出てこない。
その元医者は、忙しすぎる仕事をやめたから、しあわせ感が増大したのである。ならば、「人に親切にするとしあわせになる」などは言わずに「リタイア生活をすると、しあわせになる」と言ったほうが、実情によく合致しているのではないかと思うのである。
その元医者は、しあわせを感じる回路と言うべきものが破壊されてない状態で、リタイア生活に移行したので、しあわせを感じるだけなのかもしれない。おなじように多忙だった人が、リタイア生活をすれば、しあわせを感じるかどうかは、ほかの条件によって異なる。なので、多忙な人がリタイア生活をすれば、かならず、しあわせになるとは言いがたい。