ヘビメタ騒音で人生がない。どうしても、くらべてしまう。ヘビメタ騒音がなかった場合の俺の人生と、俺の人生をくらべてしまう。ほかの人にはまったくわからないことがある。それは、俺がどれだけ「ヘビメタ騒音がくるしかった」「ヘビメタ騒音でこういうことができなかった」「ヘビメタ騒音でこういうことができなくなった」「ヘビメタ騒音でこういうトラブルが生じた」ということを説明しても、わからない。経験してなければ、わからない。あのひどさが、わからない。俺以外の人間は、あのひどさを経験してない。どういう、朝になるかわかってない。どういう夕方になるか、わかってない。どういう、深夜になるかわかってない。きちがい兄貴が、きちがい兄貴でなく、普通の兄貴だった、あんなことにはなってない。どれだけ、ヘビメタ騒音に凝っていたとしても、あんなことにはなってない。どんだけ、ヘビメタを思いっきり鳴らそうと思っても、あんなに思いっきり鳴らせない。
中古マンションのことを考えているとき、「うちが、マンションだったらあんな音じゃ鳴らせないのに」と思ったりする。いかりがわく。いかりと破綻を繰り返している。どうしたって、気分がよくない。どうしたって、すっきりした気持ちになれない。
毎日の繰り返しというのがある。毎日の繰り返し……それも、成長期に数千日、毎日、繰り返されたこと。……こんなことが、影響を与えないわけがない。ところが、それをやらなかったやつは……自分の体で経験してないやつは……「騒音なんて、だれだってある」「騒音なんて、鳴り終わったら関係がない」「騒音なんて、関係がない」と言いやがる。でこパッチンBをしたくなる。
ほかの人がわからないということは、他の人は、ヘビメタ騒音の影響を認めずに、俺に圧力をかけてくるということだ。そういうことになる。こいつらは、でこパッチンB。みんな、でこパッチンC。
こういう人たちは、きちがい兄貴の態度もわからない。きちがい親父の態度もわからない。きちがい親父がヘビメタ騒音についてなんて言ったと思うよ? もう、書いてきたからここじゃかかないけど、きちがいすぎて、わからない。ほかの人の常識の範囲外。きちがい兄貴やきちがい親父は、俺がどれだけ何回言っても、俺がきちがいヘビメタ騒音でこまっているということを認めない。あんなでかい音で、普通の人は鳴らさないということを、認めない。きちがいだから「なっちゃったなっちゃったでしかたがない」だ。きちがい親父は、カラがだでかくなった兄貴に、注意ができないだけ。きちがい兄貴が小さいときは、虐待してたのに、きちがい兄貴の体が自分の体より大きなったらも、もう、完全に無視して、きちがい兄貴がやっていることに関して関心を払わない。ガン無視。絶対に注意しない。絶対に注意しないとなったら、なにがなんだろうが注意しないんだよ。「そんな音で鳴っているのに親が注しないのはおかしい」とか、なにも知らない、普通の人が普通の感覚で言う。こういうことが発生してしまう。どれだけ挟まれてきたか。きちがい親父のきちがい感覚と、世間の感覚の違いがでかすぎる。きちがい兄貴のきちがい感覚と、世間の感覚がちがいすぎる。おかあさんの言うことは、兄貴はかない。おかあさんはこまってただけだ。親父とはちがって、注意はしてくれたけど、注意したって、兄貴が聞かない。兄貴がずっと、実力行使で鳴らし続けたら、こまったまま、うなだれてしまう。自分の寝床で、横になっていた。きちがい兄貴がまったく気にしないで、がんがん鳴らす気ちがい空間。そういうものを、押し付けられた。この、騒音の影響なんだけど、ほかの人が考えるように、鳴り終わったら、すぐに、関係がなくなるようなものじゃない。それは、一日のなかでもおなじだし、一生のなかでもおなじだ。ほかの人の考えが、まちがっている。ぜんぜん、ちがう。実際は、ぜんぜんちがう。ほかの人は経験したことがないから、完全に影響を無視できるけど、実際にやられ続けた俺は、無視できない。「無視しようと思えば無視できる」……そういうことを言うやつは、でこパッチンB。だいたい、そういうことを言う人は、実際のヘビメタ騒音を聞いてない。俺の部屋で、きちがい兄貴が鳴らしていた、なまの音を聞いてない。聞かされてない。何時間も何時間も聞かされたら、夜、どうなるかわかってない。本来なら眠るべき、夜の時間、どうなるかわかってない。眠れなくなるんだよ。どれだけつかれていても、朝まで眠れなくなる。これが、一日に与える影響がでかい。帰ったら、鳴っている状態だ。鳴っていたら、どれだけ言っても、一分間もやめてくれない。きちがいがきちがいの意地てやりまくる。そのきちがいの意地というのは、きちがい親父の意地とおなじだ。きちがい兄貴の頑固な態度は、きちがい親父の頑固な態度とおなじ。きちがい親父が発狂して、頑固に「怒り狂っていた」ときと同じ態度だ。「やめろ」と言われたら、発狂して、きちがい的な意地でやり続ける。けど、きちがいだから、そういうことをした「つもり」がない。つねに、きちがい的な意地でやるけど、つねに「つもり」だけはないのだ。「つもり」がなければ、「やったってやったことにならない」のである。主観的にはそうなんだよ。だから、まったく関係がない人として、鳴らし続けるのである。主語? きちがい兄貴だよ。きちがい親父は、別にヘビメタを鳴らさなかった。あいつは、きちがい的な理由で、きちがい的な頑固さを発揮して怒り狂うということをしていた。その、意地や、態度や、自分のやっていることに関する認知が、きちがい親父ときちがい兄貴でまったく、おなじなのである。
きちがい兄貴がヘビメタでやったことというのは、世間的に見れば、どれだけ、常識はずれなことでも、うちのなかでは、「形式的に」成り立っていたことだ。ただ、やっている人間と、やっている内容がちがうだけ。しくみはおなじ。だから、普通の家では成り立たないけど、「うち」では、普通に成り立ってしまうのだ。きちがいが、きちがい的な意地でやって、今度は、きちがい的な意地で「やった」ということを認めないということが、普通に成り立ってしまう。きちがい的な意地でやって、きちがい的な意地で「やった」ということを押し流してしまう。認めない。けど、やっているときは「やったって、あたりまえ」という気持ちがあるんだよ。やっているつもりがないのと、きちがい的な意地でやり続けるのは矛盾がある。普通はそんなことはない。けど、それが普通に成り立ってしまう、「うち」だったんだよ。「うち」では、まったくおかしくないんだよ。