親切行為ということを考えた場合、どういうことが親切行為だと思えるかどうかということは重要なことだ。たとえば、ぼくは、母親のために二十数年間にわたって毎日、ご飯をつくってきたけど、これが、親切行為なのかどうかわからない。
親切行為なのであれば、ぼくは、毎日、親切行為をしていた。人に親切にしていたのである。
けど、じゃあ、きちがいヘビメタにやられて、働けない状態で、きちがい的な父親と一緒に住んでいて、しあわせだったかというとしあわせではなかったのだ。
きちがいヘビメタにやられたあと、ずっと、からだがくるしい。いまも、くるしい。
けど、きちがい兄貴ほど、夢中になってきちがいヘビメタをでかい音で鳴らした人が、まわりにいない人は、そういう兄が横の部屋に家族として住んでいるということの、意味が、ぜんぜん、わかってない。
そういう兄が横の部屋に家族として住んでいるということの影響のでかさがわからない。この問題に関係がない人……よその人……自分はヘビメタ騒音にやられたなかった人にとってみれば、ヘビメタ騒音がどれだけでかい音でも、鳴り終わったなら関係がないと思ってしまう。
けど、身体的に言っても精神的に言っても、関係がある。
ともかく、だるい体をひきずりながら、ご飯だけはつくっていたのである。きちがい的な父親もじつはぼくがつくったご飯を食べていた。きちがい的な父親には「たべさせない」というような意地悪はしていない。
ぼくが、母親に親切にしたにもかかわらず、ぼくは、しあわせにはならなかった。それから、母親の状態なのだけど、はっきり言ってよくないのだ。よくなかった。ずっと、超低空飛行なのである。病状がよくなるということがほとんどなかった。
たまに、調子がほーーんのすこしだけいい日があったとしても、次の日には、また前々日よりも悪くなっているという状態で、全体を通して、病気が治るということがなかった。
母親が抱えている病気は一種類ではなかった。同時に何種類もの病気を抱えていた。特に、免疫系の病気がほかの病気に影響を与えていたと思う。ともかく、どれだけ世話をしても、どれだけ、栄養がある料理つくっても、ぜんぜんよくならなかったのである。長期間にわたって……。
もしかりに、母親のためにご飯をつくるということを親切行為としてカウントするのであれば、親切にしたのだから、しあわせになるはずなのである。「XをすればYになる」というかたちで「親切にすれば、しあわせになる」ということを言う人は、現実的なことがまったくわかってないのではないかと思える。
一日のなかで、親切にしたときにしあわせ感を感じる回数と度合と持続時間といったものと、ほかのトラブルで不愉快に感じる回数と度合と持続時間というものを考えなければならないのだ。
どうして、親切にするということだけをとりあげて、ほかのことを取り上げないのだ。一日のなかで、かりに、あかの他人に親切にしたとしても、一日のなかで、きちがい的な家族と、108回の激しいトラブルが生じていたら、全体感情としては、やはり、しあわせだとは感じることができないのである。
介護殺人について思い出してしまった。
50代の女性が、それまで介護をしていた3人の高齢者を殺してしまったのである。それまで介護をしていたということがポイントだ。この50代の女性が、一日で、ひとりつき50回の親切行為をしたとする。
一日で150回だ。介護をはじめてから、50代の女性が3人の高齢者を殺すまでに、3000日あったとする。その場合、150回かける3000日で、合計450000回も親切にしたことになる。けど、この50代の女性のしあわせ感というものはどうだったのだろう。
親切にしてあげたから、しあわせを感じていたのだろうか。親切にしたから、しあわせになったのだろうか。けっきょく、「もうだめだ」と思って、殺してしまったのだから、くるしいものであったと想像できる。しあわせなのに、殺すか? つらかったから、殺したんでしょ。くるしかったから、殺したんでしょ。
どうして、しあわせな人、しあわせ論について語る人はそういうことを無視してしまうのか? どうして「人に親切にすると、しあわせになる……これは絶対に正しい」と思ってしまう人は、そういうことを無視してしまうのか?