俺っ、むかしっから、成功した経営者や、なんだか知んないたけど恵まれた環境で育ってきた人や、有名な学者や、有名な宗教指導者が「親切にすると、しあわせになる」とか「感謝すると、しあわせになる」とかと言っているとき、「なんかおかしいな」と思ってきたんだよな。
そんなことで、しあわせになるなら、みんなしあわせになっている。だれだって、しあわせになるのであれば、不幸な人なんていない。不幸だと思っている人なんていない。くるしいと思っている人なんていない。くるしくてくるしくて、いきているのがつらいとおもっているひとなんていない。
そりゃ、親切にしたり、感謝をすれば、しあわせになるからだ。
つらい状態から解放されて、しあわせになるはずだ。けど、つらい状態でくらしている人が親切にしたり、感謝をしたりしても、しあわせにならない。あるいは、しあわせにならない場合のほうが、しあわせになる場合よりもずっと多い。
「どうしてかな」って、ずっと思ってきた。
それから、しあわせサイドから、「感謝をすればしあわせになる」とか「親切にすればしあわせになる」と言っている人には、わからないだろうけど、まわりのやつにやられて、つらくてつらくてしかたがない人が、そういうことを試みて、しあわせにならないときの、打撃がすごいのだ。
これも、しあわせサイドの人が完全に無視していることだ。
しあわせサイドの人が無視しているのは、つらい人の状態、つらい人の状況、つらい人の履歴だ。現実場面だけを輪切りにして、「こうすればしあわせになる」と言っているだけだからだ。こういう人は、まったくわかってないので「パンがなければ、パンをつくればいい」「パンがなければ、ケーキを食べればいい」「パンもケーキもなければ、ステーキを食べればいい」とパンも、小麦粉も、ケーキもステーキも、その他のパンらしきものをつくるための粉もない人に言ってしまう。小麦粉の代わりに米粉を使ったケーキをつくりましょうという場合だってあるから、いちおう、その他のパンらしきものをつくる粉もない人と書いておいた。
これは、状況の無視なんだけど、しあわせサイドの人は、ふしあわせサイドの人の、生まれ格差や生まれの格差から不可避的にしょうじる時系列的な経験というものを無視してしまう。履歴は大切だ。そりゃ、不幸な体験が積もり積もっている。一回の親切や感謝でくつがえせるものではない。もちろん、こういうことを言えば、「一回じゃなくて、何回も何回もやればいいじゃないですか」というようこなとを言い出すと思う。
全部がその調子だ。
実践的とか言い出したときには、まるまるまる。一番、実践的じゃないよ。まるで状態がわかってないから、言える言葉。これは、ほんとうにある意味、こまっている人をばかにしている。不幸な人を、侮辱している。不幸な人やこまっている人を……さきに……ばかにしたり、侮辱したのは、しあわせサイドの人。
しあわせサイドの人にはまったく見えてないところがある。そして、見えてないところが、ふしあわせな人のふしあわせな感じに影響を与えている。この影響は小さな影響ではないから、無視することはできない。小さなことではなくて、つらさの本体、ふしあわせ感の本体だからな。