みんな、実際にやられたわけじゃないから、わからないんだよな。
「どんな場合だって……」とか「だれでも……」というのは、成り立たないと思う。こうすればよくなる系の話で「どんな場合だって……」とか「だれでも……」と言うのは、よくないことだと思う。これ、信じたほうの落ち度なんだけど、実際にやってみれば、反対の結果が返ってくる。「そんなことはない」と思うのは、「どんな場合だって」の「場合」が、その人の想像の範囲内の「場合」に限られているからだと思う。これ、真に受けた人が、ばかを見るのである。もちろん、「どんな場合だって……」とか「だれでも……」と言った人は、そんなことは、考えてない。想定の範囲外だから、考えられない。
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たとえば、「どんな場合だってニコニコ笑っていればいいことがある」というようなことを言った人がいたとする。激しいいじめを受けている女子中学生がそれを真に受けたとする。そして、その女中学生が、いじめている側の女子中学生になぐられていたとする。そのとき、「どんな場合だってニコニコ笑っていればいいことがある」という言葉を思い出し、その通りにして、にこにこしたとする。そうしたら、いじめている側の女子中学生は、やめてくれるか? まあ、これは、想像の話だけど、やめずに、なぐり続ける。「こいつ、なぐられているのに笑ってやがるぜ」「マゾだマゾ」「もってやってやれ」なんてことになる。いじめている側の女子中学生って、複数ね。
袋叩きにされて、からだじゅうがいたいとき、この女子中学生は、なんと思うか? 「どんな場合だってニコニコ笑っていればいいことがある」なんて嘘じゃないかと思う。
けど、ニコニコ教団の人は認めない。
「どんな場合だってニコニコ笑っていればいいことがあるというのは、真実だ。どんな場合だってニコニコ笑っていればいいことがある」というのは正しい。実際、自分はニコニコしていたら、いいことがあった……というようなことをニコニコ教団の人は言う。
「ニコニコ笑っていても、いいことなんてない」という女子中学生の認識が正しいのか、どんな場合だってニコニコ笑っていればいいことがある」というニコニコ教団の人の認識が正しいのか?
この女子高生にとっては、「ニコニコ笑っていても、いいことなんてない」という認識が正しいということになる。問題なのは「ニコニコ笑っていればいいことがある」というようなことを、物理法則のようにあつかうことなのである。問題なのは「どんな場合だって」という言葉つけてしまうことなのである。ある条件下では、「ニコニコ笑っていればいいことがある」というが成り立つし、別のある条件下では「ニコニコ笑っていればいいことがある」ということが成り立たない。
それから、「実際、自分はニコニコしていたら、いいことがあった」というのは、個人的な体験である。だから、物理法則のように、どんな場合でも成り立つ法則ではない。そういう意味では、もちろん、なぐられ続けた女子中学生の「ニコニコしていたら、もっとなぐられた」というのも、個人的な体験だ。どっちが、法則として正しいか? どっちも、法則としては正しくない。なにか法則のように言ってしまう人たちが悪い。どうしてかというと、法則ではないから。