お経の上に、いっぱいネズミの糞がおちている。だから、こういうことになるから、「ネズミシートじゃなくて、工事をして穴をふさがなかったらだめだ」と言ったんだ。どーすんるんだよ。
ああいうの……。
こういう、難問を残していく。
仏壇はもうだめだ。位牌は、消毒しても、だめだ。だいたい、ニスがついているものは、アルコール消毒液をつけるとものすごいことになってしまう。白く変色してしまう。
これが、きったない感じになる。俺が、仏壇を粗末にして、俺が位牌を粗末にしているよう思われるんぞだ。
以降、「俺がつかまえるからいい」という発言をしたのは親父だ、「俺がつかまえるからいい」の「俺」というのは、親父のことだ。全体としては「ネズミはネズミシートを使って俺(親父)がつかまえるから、ネズミ対策工事の必要はない」ということだ。
ちょっとでも、エイリが「工事が必要だ」とか「ネズミの糞をどうにかしよう」と言うと、親父が「俺(親父)がつかまえるからいい!!!俺(親父)がつかまえるからいい!!!俺(親父)がつかまえるからいい!!!」と、真っ赤な顔をして絶叫する。
こたえになってない。ネズミが入ってくる状態を維持してしまったら、ずっとネズミの糞がふえるだろ。入ってきたネズミを、ネズミシートでつかまえたとしても、あとからあとから、入ってくるわけだから、ネズミの糞がふえることに関して、「俺(親父)がつかまえるからいい!!!」ということは、こたえになってないんだよ。
ネズミ本体の問題の処理をどうするかと言っているのではなくて、ネズミの糞がふえることをどうにかしようと言っているわだから、こたえになってない。
で、こたえになってないということを説明しても、「俺(親父)がつかまえるからいい!!!俺(親父)がつかまえるからいい!!!」一点張りなのだ。ぜんぜん話が伝わってない。
自分の気持ちだけなんだよ。よく考えて、決定するとか、そういうことじゃない。
自分が工事をしたくないから、工事にかかわることを言われると自動的に「俺(親父)がつかまえるからいい!!!俺(親父)がつかまえるからいい!!!俺(親父)がつかまえるからいい!!!俺(親父)がつかまえるからいい!!!」と絶叫する。頭がおかしい。で、どれだけ言っても、伝わらない。一文字もつたわってない状態なんだから。
それで、親父の特徴なんだけど、俺がつかまえるからいい!!!」とはねのけたら、もう、それで関係がない人になってしまう。「俺がつかまえるからいい!!!」とはねのけたのだから、はねのけたという出来事がないことになっている。
こっちがなにを言っても、「俺(親父)がつかまえるからいい!!!俺(親父)がつかまえるからいい!!!」とはねのけたのに、「はねのけた」ということはないということになっているのである。
その、夢中になって、発狂して、はねのけた直後にそういう状態になっている。本人は、まったく関係がないニュートラルな人になってしまっている。
発狂して、主張したのに、主張したことになってないのだ。
「穴をふさいでネズミの流入をとめなければ、ネズミの糞が増えて困る」とエイリが言っているのに、親父が「俺(親父)がつかまえるからいい!!!」と激しく主張して、「工事をして穴をふさごう」というエイリの案をしりぞけたんだよ。
ところが、しりぞけたさいちゅうも、しりぞけた直後も、そういうことになってないのである。まったくなにも、積み重なってないのである。まったくなにも、記憶にないのである。ようするに、発狂して、相手の案をしりぞけているとき、特に「しりぞけた」という気持ちがないのである。自分の気持ちだけで、そのとき」のことを乗り切ってしまえば、もう、それで、まったく関係がない人になってしまうのである。乗り切る方法は、「めちゃくちゃに怒鳴って」否定語を投げつけることだ。
で、それは、部分否定で、本当は、相手が言っていることを理解してない。きちがい親父にとって「なにかそれ」なのである。相手が言っていることを理解してないのである。けど、それは、意識的な部分、無意識的な部分は理解しているのである。それは、「なにか不愉快なことを言われた」という感触になってあらわれる。そうしたら、自分の気になった「部分」だけ、逆上して、否定するのである。そうしたら、もう、その問題が済んでしまっている。
「ネズミシートを使ってつかまえる方法だと、親父がこの家から、いなくなったら、俺(エイリ)がネズミシートでネズミをつかまえなければならなくなるからこまる」とエイリが言ったときがある。
そうしたら、親父が「いなくならないよ!!!いなくならないよ!!!いなくならないよ!!!いなくならないよ!!!いなくならないよ!!!いなくならないよ!!!」と発狂して、俺の言うことを認めないのである。
俺の言うことを否定するのである。
「入院するかもしれないじゃないか」とエイリが言ったら、親父が「入院しないよぉ!!入院しないよぉ!!入院しないよぉ!!入院しないよぉ!!」と顔を真っ赤にしてきちがいの形相で、さけぶのである。けど、二年前に実際に入院しているのである。二年前に入院したことがあるのに「入院しないよぉ」と叫ぶのである。ようするに、まったく理解しないまま、ともかく、「否定語」もしくは「否定文」を叫ぶのである。叫んだら、本人のなかではもう、終わっている。完全に終わっている。解決済みの問題になっている。けど、こっちは、それだとこまる。
二年前に、入院したばかりなのに、そういうことを叫ぶ。
エイリが親父に「死ぬかもしれないだろ」と言ったら、親父が「死なないよ」と絶叫するのだ。「いや、死ぬことだってあるでしょう。人間は死ぬ生き物だから」とエイリが親父に言ったら、親父が「おまえ(エイリ)、俺に死んでほしいのか」と言いやがるんだよ。
「いや、死んでほしくないけど、人間は死ぬ生き物だから、死ぬことだってあるでしょう」とエイリがおやじに言ったら、親父が「死なないよ!!死なないよぉ!!死なないよぉ!!死なないよぉ!!死なないよぉ!!死なないよぉ!!」と真っ赤な顔をして絶叫するのである。「入院することがある」ということや「死ぬことがある」ということを、認めない。
そのときはねのけてしまえば、本人のなかてばそれですんでいる。発狂するんだけどな。これは、俺が小さなときからかわらない。きちがい親父は、俺のことを虐待しているときも、そういう理論があった。くずれた反応があった。今更始まったことじゃないのである。認知症になったからそういうふうに言ってわめいているわけじゃなのである。
はっきり言えば、むかし「親父」のほうが、そのときの親父より、二〇倍ぐらい強いよ。体力的にも、大人だったわけだから。経済的に、完全に幼児である子供の状態を支配できる状態だったのだから……。自分の思ったようにすることができる状態だった。自分の金なのだから、もちろん、そうする権利があるけど、親父の根本にこういう性格があるから、いろいろなことでそういう部分が反映てしまうのである。
だから、むかしむかし……親父が幼児である俺や兄貴を、虐待するときも、こういう理論が根本的に成り立っているのである。頭が正常な人が、虐待するわけじゃないのである。虐待しているときの、やり取りのなかにこういうやり取りがある。人間としての感覚が正常なら絶対にわかることを、頭っから否定する。そして、きちがい的な意地で否定したのに、否定し終わった本人のなかでは、「否定した」ことになってないのである。これが、よその人には、わからない。そういう頭の持ち主がいるということさえわからない。
普通の人が普通に考えれば絶対にわかることを、頭っから否定するという性格がある。こういう頭の構造が成り立っている人が、自分の子供を虐待するときは、普通の人……こういう頭の構造が成り立ってない人が自分の子供を虐待するときとは、ちがったやり取りが成り立っているのである。似てるけどちがう。何回も言うけど、似てるけどちがう。さらに、親に虐待されなかった普通の人は、「親には感謝するべき」と普通に言える。そして、これには、すべての親子関係が含まれているのである。ようするに、頭がおかしい親に虐待された(子供側の人)も、親に感謝するべきだと、普通の人は言ってしまうのである。これがどういうことなのか、普通の人は、逆立ちしても理解できないだろう。
ともかく、もっといろいろとあるのだけど、僕は腹立たしい。なにか、祖先の霊を祭るという意味で大切な箱があるんだけど、その上に、豆粒のようなネズミの糞がいっぱいおちているのだ。
これ、本当に気持ち悪い。ななめに、わりと大きなネズミの糞が、並んでいる。これがなんか、気持ち悪いんだよ。しかも、これ、表面が布に覆われた紙の箱なので、完全にふきとるということができない。洗濯することもできない。ネズミの糞と、箱の布が接している部分は、汚れが落ちない。しかも、ネズミの糞にはダニや寄生虫がいっぱいついているので、ネズミの糞(本体)を落としてまえばそれで、すむというわけではない。
ともかく、これ、業者の人になんて言おうかな。これは、捨てるために持って行ってもらうことはできない。けっきょく、ネズミの糞をかたちだけ、落とすことになる。けど、ばい菌やダニがついている。ばい菌から見れば、ネズミの糞と布が接触している部分というのは、広大なスペースだ。
* * *
ともかく、親父とのやり取りを思い出して、ぼくが腹をたてたとするだろ。そうすると、腹をたてた気持ちで、ほかの人の相手をするということになるだろ。これが、ものすごく問題があることなのである。
本人にとってどれだけ不幸なことがあっても、ほかの人には関係がないのだから、自分の不幸な気持を相手に見せるべきではない。という……一般的には正しい教えがある。これは、一般的には正しいけど、きちがい親父のような人間にやられた人間にしてみれば、自殺をうながすような教えなのである。これが、ほかの人にわからない。
「どれだけつらくても、にこにこわらっていたほうがいい」というような教えは、人を自殺に追い込むような力がある。破滅破綻なんだよ。これ、どれだけ、無理なことを言っているのか、「どれだけつらくても、にこにこわらっていたほうがいい」といようなことを言う人にはわからない。
きちがいが相手だと、やはり、ちがってくるのだ。きちがいである父、やられる子供、「どんなときでも、どんなにつらくても、にこにこわらっていたほうがいい」と言う第三者というみっつの立場がある。
きちがいではない人にやられた人はわからない。きちがい的な親にやられたことがない人は、きちがい的な親がどういうものか、わからない。きちがいである親にやられるということの意味やきちがいである親に何千回も何千回も何千回も何千回も同じパターンでやられたということの意味がわからない。
そして、なんていうのかな、そういう第三者がきちがい的な親の側に立ってしまうのである。無意識的な内容を絶対の意地でやるけど、やったつもりがない人の側に立ってしまう。「どんなときでも、どんなにつらくても、にこにこわらっていたほうがいい」というようなことを言う人だって、どちらかと言えば、きちがい側に立っている。