度数というものがあると思う。むかし、と言ってもつい最近だけど、持続時間が問題なのではないかということを書いた。で、今度は、しあわせだと感じる度合いについて書いてみたいと思う。
基本的に、法則性があることとして「親切にすれば、しあわせになる」ということを言ったとしよう。けど、きちがい的な父親に虐待されている子供が、友達に親切にしても、そんなにはしあわせにならないと思う。
繰り返しになるけど、「しあわせになる」というのは、ある程度長い期間にわたってしあわせな生活をするというイメージがある。瞬間的な「幸福感」のことを言っているのではないのである。
たとえば、友達に親切にしたとき、きちがい父親に虐待されていることをわすれて……三分間ぐらい、いいことをしたつもりになって幸福感を感じたとしよう。この場合、家に帰って、きちがい的な父親とあってしまえば、それで、しあわせな感じというのはなくなる。破壊される。
きちがい的な父親がいちゃもんをつけてきて、激しく怒り狂うので、いやな気持になる。この場合、さっきまでの幸福感はなくなり、不愉快で不幸な気持になるのである。きちがい父親がきちがい父親である限り、そして、子供として一緒の家に住んでいる限り、その子供は「しあわせにはならない」のである。……たとえ、「人に親切にした」としても……。
だから、こういうことを無視して、あたかも物理法則のように「人に親切にすれば、しあわせになる」というようなことを言うのはよくないということを言ってきたのである。
これが、前回までの内容で、今回は、度合いについて考える。ようするに、さきの例で言えば、友達に親切にしたときに、感じるしあわせの度合いを一(いち)だとする。そして、きちがい的な父親にわけのわからない理由で怒り狂われたときに感じる不幸の度合いを三一(さんじゅういち)だとする。その場合、一日のなかで、このふたつが大きな出来事だとすると、三〇(さんじゅう)ぶんだけ、不幸になってしまうのである。
度合いや、頻度ということを無視して、あたかも、一回でも人に親切にすれば、「しあわせになれる」と言ってしまうのは、問題がある。
どうしてかというと、これがまた、恵まれた人にはわからないのだろうけど、この「〇〇をすれば、しあわせになる」というのは、おぼれている人にばらまかれた「わら」なのである。
おぼれているひとというのは、すでに強烈に不幸な人のことだ。
強烈に不幸な人だからこそ、しあわせになりたいのである。
しあわせになる方法を求めてしまうだろう。
しかし、そのしあわせになる方法というのが、がせねたなのである。嘘情報なのである。どれだけやっても、しあわせにはならないことなのである。マリーアントワネットが言霊主義者だったらということを書いたけど、「わたしは、しあわせになる」と言っても、しあわせにはならない場合がある。それは、パンが出てこないのとおなじなのである。
パンもケーキももってない人が、「パンがあるパンがある」といくら言っても、パンが出てこないように、すでに不幸せな人が「わたしは、しあわせになる」と言ってもしあわせにならない。
すでに不幸な人は、すでに不幸である「理由」がある。
その理由がなくならなければ、しあわせになる「前段階」にも到達しないのである。……どーーして、これがわからないのか?
たとえば、さきの子供の例で言えば、きちがい的な父親が、きちがい的な父親ではなく、正常な父親にならないと、その子供が「わたしは、しあわせになる」と何回も何回も言ってもしあわせには、なれないのである。あるいは、そのきちがい的な父親と引き離されて、普通の生活をしなければ、しあわせにはなれないのである。
きちがい的な父親に常に、毎日、たたられているのに、「しあわせだ」と感じることはないだろう。かりに、しあわせを感じる瞬間があったとしても、その瞬間は、短く、たたられて、くるしく、不愉快で、不幸な感じがする生活が続く。
不幸な感じがする生活が長く続いているのに、「しあわせになる」ということはない。