手短に言うと、もっている人たちは、もっていない人の状態がわからない。また、人間はどうしても、自分が普通だと考えてしまうので、もっている人たちは、もっているのが普通だと思ってしまう。
なので、じつは「もってない」人に対しても、「もっている」という前提でものを言ってしまう。
物理的なものだと、「もってない」ということや「もっている」ということは、比較的に言ってわかりやすい。しかし、物理的なものに関しても、「もってないなら、もてるようにすればいい」というようなことを言うことができる。
もちまえの?ポジティブ思考や認知療法的な意味での合理主義にこだわっていると、どうしても、そういうことを言いがちになる。
しかし、これもまた、「もってない」ということがわかってないという場合がある。
どういうことか?
たとえば、「パンがないなら、パンをつくればいい」「ケーキがないなら、ケーキをつくればいい」ということを、ポジティブな人が言ったとする。その発言だけは、あっている。
けど、小麦粉やほかの材料がないという状態だと、「つくれない」のだ。「もっている」人は、こまっている人が「小麦粉やほかの材料をもってない」ということがわかってない。
けど、「小麦粉やほかの材料がない」というとを聞いたポジティブな人は「小麦粉がないなら、小麦粉をつくればいい」「ほかの材料がないら、ほかの材料をつくればいい」とか「小麦粉やほかの材料がないなら、小麦粉やほかの材料を買えるだけのお金をつくればいい(稼げばいい)」ということ言いたくなってしまうのだ。
……ポジティブ思考にとらわれているとそういうことを、「相手の状態を考えないで」言いたくなってしまうのだ。しかし、相手の状態というのは、小麦粉やほかの材料をつくることができない状態であり、また、小麦粉やほかの材料を買うためのお金を稼げない状態であり、さらにまた、小麦粉やほかの材料がそもそも、売ってないという状態なのだ。
マリーアントワネット庶民の関係では、マリーアントワネットが絶対的少数派、庶民が絶対的な多数派だった。
だから、「マリーアントワネットは、(自分たちの状態を)まったわかってない」という考えを、庶民が共有できたのだ。しかし、もっているほうが多数派で、もってないほうが少数派だったらどうなるか。
多数派には、少数派が、「どーーしょうもないことを言っている」ようにしか聞こえない。多数派には、少数派が、「非合理的でネガティブなことを言っている」ようにしか聞こえない。
そうなってしまう。
「どうして、ないならないで、つくろうとしないのか?」「どうしてないならないで、それを買うお金をつくろうとしないのか?」という意見が、社会的に見て、正しいことのように思えてしまう。どうしてなら、多数決の世界だからだ。
「状態」がわからなければ、わからないことがある。「状況」がわからなければ、見えないことがある。どういう状態や状況で、ものがないのかということがわかってないと、ものがないということに関しても、まとはずれな発言をしてしまうのだ。
暗黙知のように、判断の背後には、無数の状況に対する理解が存在している。どうして、お金を稼ぐことができないと判断しているのか、どうして、お金あってもものを買うことができないと判断しているのか……そういうことが、わかっている人は、わかっているのだけど、わかってない人にはわからないのだ。
わかっている人は、そういう主張をしている本人たちだ。わかってない人は、そういう主張を聞かされた人たちだ。わかってない人たちは、そういう主張を聞かされると、状態や状況を無視して、自分にとって正しいことを助言してしまう。
「まるまるすればいい」と言ってしまう。
しかし、助言をしたほうは、悩みごとについて発言したほうの状態や状況がただ単に、わかってないだけのなかもしれない。助言をしたほうは、悩みごとについて発言をしたほうの「背後にある条件」が理解できてないだけかもしれない。
しかし、理解できてないということを、ポジティブ思考にとらわれている人が認めるだろうか。
ぼくは、ポジティブ思考にとらわれている人が、「自分は相手の条件、状態、状況を理解してないので、非合理的なまちがった助言をしている」ということを認める可能性は、きわめて、小さいと思う。可能性という言葉に関しては「ひくい」のほうがより適切なのだけど、わざと「ちいさい」という言葉を使うことにした。
……ちいさい。
しかし、社会において多数派がそういう人間たちで構成されているなら、それで押し通すことができる。「悩みごとについて発言したほうが、非合理的な思考にとらわれて、できるはずの努力をしないから、だめなのだ」と考えることができる。多数派なら、理解をしないまま、そういう主張を押し通すことができる。