あとは、いろいろだ。これ、こっちに書いていいのかわからないけど、ほんとうに、生まれの格差、育ちの格差が、すごい。
すごすぎる。
これ、ほんとうに、人間は自分が普通だと思ってしまうからなぁ。相当に恵まれている人も、自分が普通だと思ってしまう。
そうすると、「パンがなければケーキを食べればいい」というような助言が飛び出してくることになる。助言だよ。助言。パンもケーキもないやつにそんなことを言ってもしかたがないのだけど、両方ともある人は、そんなことはわからない。
両方とも持っているのが普通だと思っている人は、両方とも持ってない人に対する配慮がない。どうしてなら、普通だからだ。持ってないとは思ってないのである。
しかし、パンやケーキといった具体的な物質なら、「もってない」「もっている」ということがわかる。見ればわかる。そして、「もってない」ならパンやケーキがない状態であるということがわかる。「もっている」ならパンやケーキがある状態だということがわかる。
けど、経験ならどうか? そういう抽象的なことに関しては、あるいは、頭のなかにあるようなことに関しては、「もっている」側から見て、「もってない」側の状態がまったくわからない。
「ない状態」というのがうまく想像できないのだ。かりに想像しても、想像の範囲内のことでしかない。それは、現実に経験してみないと、わからない。「どういうことなのか」ということが、自分のこととしてわからない。
ぼくはきちがい的な親とかきちがい親父と言っているけど、きちがい的な親にやられてない人には、きちがい的な親にやられるということの意味がわからない。自分の経験をとおしてわかってないと、不適切な助言をすることになる。
ぼくにしたって、親父のようなタイプの毒親がどういう毒親か知っているけど、ちがったタイプの毒親がどういう毒親なのかはわからない。ちがったタイプの毒親に関して言えば、普通の親を持っている人とおなじように、わからない。
普通の人たちは、きちがい的な親がどういうことをするか、わかってない。きちがい的な親が激しくやったことが、どういう効果を与えるのか、わかってない。同じタイプのきちがい的な親がいない人には、わからない。
説明されても、「そんなことがあるのか」ぐらいの理解度でしかない。
あるいは、やられたことに関して、一応の理解をしても、自分のことではないので、「影響のでかさ」について過小評価してしまうのである。
あるいは、無視してしまう。
「そんなことの影響を受ける必要はない」というような言い回しは、そういう意味で、人間の限界みたいなものをあらわしている。「影響を受けるとか受けないとか、そういうことではない」ということを、かりに僕が言っても、「そんなことの影響を受ける必要はない」と言っている人にはわからない。
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極端に恵まれている人でも、自分は極端に恵まれているとは思わずに、自分は普通だと思ってしまうところがある。
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まあ、まとめて言うとだな。物理的な形態を維持しているものに関しては、それがあるとかないということはわかる。見ればわかる。けど、「それがないということがもつ意味」というのは、わからない。それをもっている人には、「それかないということがもつ意味」がわからない。そして、さらに、毒親の行為といった、抽象的なものだと、もっとわからないといううとだ。毒親の態度、毒親の行為、毒親の性格……みんな、毒親にやられてない人は、わからない。「ものがないということがもつ意味」以上に、わからない。