これ、まるでわかってないのだろうけど、人を追い込むんだよ。「パンがなければケーキを食べればいいのに」というような言葉に匹敵する言葉だ。
「人に親切にすれば幸せになれる」「人に感謝すれば幸せになれる」こういう言葉を言う人がいるけど、これは、「パンがなければケーキを食べればいいのに」に匹敵する言葉だ。
実は、マリーアントワネットは「パンがなければケーキを食べればいいのに」と言わなかったという説がある。けど、今回はマリーアントワネットは「パンがなければケーキを食べればいいのに」と言ったとして、以下の説明をしようと思う。
マリーアントワネットは、わかってなかった。ほか人たちの「実情」がわかってなかった。合理的に考えれば、マリーアントワネットはまちがったことを言ってない。けど、民衆の気持ちをさかなでした。民衆にしてみれば、合理的に腹が立つ発言なのである。
ケーキを食べようと思えばケーキを食べられる状態を想定して考えれば「パンがなければケーキを食べればいい」という助言は実に合理的な助言なのである。
しかし、「パンもなければ、ケーキもない」とか「パンを買う金もなければ、ケーキを買う金もない」とかという状況を抱えている人間にとっては、無意味な助言だ。合理的ではないのである。
ケーキを食べようと思えば、いくらでもケーキを食べることができる状態であれば、合理的な助言でも、そもそも、ケーキを食べることができない状態であれば、合理的な助言ではなくなる。
マリーアントワネットが無視したものは、この『状況』なのである。こういう『条件』なのである。それと同じ事が、「人に親切にすれば幸せになれる」「人に感謝すれば幸せになれる」という言葉を言う人にも成り立つ。
こういうことを言っている人は、ある条件下にいる人たちの状況を無視している。だから、「だれでも」とか「どんな場合でも」と言ってしまう。あるいは、単に「人間はそういう生き物だ」と言ってしまう。
人間はそういう生き物だと言った場合には、「人間」に含まれる生物は、どんな生物でもと言っているのに等しいので「だれでも」と言っている場合と同じになる。
ようするに、人間であれば、条件に関係なく、状況に関係なく、だれでもがそうすることでしあわせになるということを言っているということになる。そうすることの具体的な内容は、他人に親切にするとか感謝の言葉を述べるということだ。
しかし、まわりの人間から虐待されている人にとってはこの言葉は意味をなさない。他人に親切にすることでしあわせになれないのである。なぜかと言えば、虐待されているからである。
この人がしあわせになるには、まず、まわりの人がその人を虐待をするということをやめなければならない。そっちのほうがさきなのである。
けど、『条件』や『状況』を無視する人には、そんなことは、関係がないのである。なので、マリーアントワネットのように、条件や状況を無視した発言をして、すでに虐待されて傷ついている人のこころを逆なでしてまう。
まあ、虐待されている人間というのは、虐待されている人間なので、虐待されている人間が「そんなことは、なりたたない」と言っても、これまた、その言葉は誰にもとどかない。
とどいたとしたら、なんと言われるか?
「被害妄想だ」「親切にするとしあわせになるというのは事実だ」「そんなことを言っているからダメなんだ(虐待されているんだ)」というような言葉なのである。かえってくるのはそういう言葉だ。これが、世の中の現実なのである。
まず、虐待がやまなければならない。人が抱える条件は、その人にとって重要なことだ。その人の状態というのは、その人にとって重要なことだ。
人によって条件や状況がちがうのだから、一様には「他人に親切にするということでしあわせになれる」とはかぎらない。
人が抱える条件や状況のほうが、「親切にするとしあわせになるというのは事実だ」ということよりも、重要なのだ……その人にとっては!!
どうして、条件や状況の大きさがわからないのだ。どうして、条件や状況を無視してしまうのだ。