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やっぱり、なんだかんだと言って、ヘビメタでくるしいな。これ、わずかな知り合いをのぞいては、ひとりで悩んできたことなんだよな。きちがい兄貴の態度なんて、ほかの人にわかるわけがない。矛盾だらけだからな。親父とおなじで……。あんなのはない。あんなでかい音で鳴らして、普通の音で鳴らしているつもりとか、そういうのも、おかしい。そういうところから、ずれている。親父のように、おおきくずれている。で、それが脳みその基本的な構造みたいで、「なおらない」んだよ。どれだけ言っても、まったく通じない。ほんとうに、きちがい状態。頭がおかしい。けど、その頭のおかしさが、「よその人」にはわからない。わからないんだよ。これ、おやじとおなじなんだよな。
認知療法家も幸福論の論者も、みんな、普通の親のもとにうまれて、普通に生活をしている。きちがい親父に、きちがい行為をされ続けた十数年間というのがない。十数年と言ったら、十数年間毎日なんだよ。「あまたの構造」でそうなっているわけだから、そいつが、そいつの頭を搭載している限り、ずっと、そうし続ける。息をするようにそう、し続ける。し続けてあたりまえだ。普通の人のように反応するということがないのである。いつも、そいつの、ずれた頭で反応するこということになる。これがどういう意味を持つのか、そういう親や兄と一緒に住んでいない人はわからない。これも、まったくわからないんだよな。親父や兄貴がわからないということとは、また、ちがった意味でわからない。けど、わからないことにはわかりがない。これは言ってしまうと、問題があるかもしれないけど、認知療法家も幸福論の論者も、ものすごく恵まれている。恵まれた家庭に生まれた人間だ。で、そういう人たちは、「それがふつうだ」と思っているのである。そして、人間だから、そりゃ「困難」はある。「くるいしこと」だってある。けど、それは、きちがい親父やきちがい兄貴にたたられている「困難」とはちがう「困難」だ。こんなの質がちがう。あるいは、そりゃ、生きていれば「くるしいこと」だってあるけど、きちがい親父やきちがい兄貴がおしつけてくるくることから発生する「くるしいこと」とは質がちがう。普通の「困難」。普通の「苦しいこと」なのである。普通の人が理解しやすい困難。普通の人がふうに語れる「くるしいこと」なのである。ぜんぜんちがう。