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社会の底辺でズタボロになりながら生きている人……こういう人は、すでにいろいろな人にしんせつしてあげている。普通に、生きているとき、親切にしてあげている。別に、意図的に親切にしてあげようと思わなくてもいい。じゅうぶんに、親切にしてあげている。
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芸能人、有名な経営者……こういう注目されている人が数十億円の寄付をすれば、話題になる。そして、「あたえることでしあわせになる」というようなことがマスメディアやネットを通じで流される。そういう場合と、普通の人が行う普通の寄付はちがう。
「おカネの話ではなくて行為の話だ」というようなことになる場合も、同様のことが成り立つ。注目されている人が、大げさなことをする場合と、普通の人が普通のことをする場合はちがう。
けど、大げさなことをしている場合について、語ってしまうのである。
しかも、普遍的な一般法則として語ってしまう。
対象が人間、普遍的な一般法則なら、一〇〇%の人がやったばあい、一〇〇%そうなるということなのである。なので、誤謬が生まれる。
対象が人間だということになっていると、そういうことが成り立たない人間が存在するので、そういうことが成り立たない場合があるのだけど、そういうことが成り立たない場合について、無視してしまう。
……ようするに、わかってない人が、「対象はすべての人間だ」と思って、そういう言葉について語ってしまうのである。人間というものは、親切にしたら、よい気持ちになる生き物だという前提がまちがっている。「人間は……だ」ではなくて、「人間のうちのある人間たちは……だ」ということなのだ。
ひかえめに言っても、じつは 「。人間というものは、親切にしたら、よい気持ちになる傾向がある」としか言えない。もし、そういうことなのであれば、もちろん、そうではない人もるということや、そうならない場合もあるということを暗に言っていることになる。「……という傾向がある」ということだから、「そうではない場合もある」ということになる。これ(アンケート調査から言えること)は、確率の問題であり、可能性の問題なのだ。どれだけ、複雑な統計処理をしても、確率の問題であり、可能性の問題であるという点は、かわらない。
幸福学について語っている人は……やったら……つまり、ほかの人に親切にしたら……一〇〇%、そうなる……つまり、しあわせを感じるようになる……という前提で語っているけど、ほんとうは、一〇〇%とは言えない。
成り立つ場合もあるけど、成り立たない場合もある。……そういうことについて語っている。しかし、語っている人は、一〇〇%成り立つと思っているのである。
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余裕のある人が人に親切にするのはいいことだけど、そういうことばかりではないのだ。余裕のない人はいる。余裕のない人が、「人には親切にするべきだ」「それが自分のためなのだ」というような説明にふれると、もっと余裕がなくなるのである。
こういう効果が、「人には親切にするべきだ」「それが自分のためなのだ」というような説明をする人にはわからない。「人には親切にするべきだ」「それが自分のためなのだ」というような説明をする人は、むかしはどうだか知らないけど、いまは、余裕のある状態になっているのである。
常に、だれがだれに対して親切にするのかということを問題にしない、普遍的な「親切」というもの考えているのだけど、それは、この世にはない。親切にしたつもりの人間が、ほんとうに親切にしたのかどうかわからないというところがある。
相手にしてみれば「ありがた迷惑」だったかもしれないのだ。こういうことは、だれがだれに対して親切にしたのかということが、本当は重要なのだけど、普遍的な真理? 普遍的な法則として語られてしまう場合には、そういう要素や、そういう要素から生じた現実が無視されてしまうのである。
そういうことのひとつの問題として、じつは、ただ単に「人には親切にするべきだ」「それが自分のためなのだ」というような説明をすること、自体の問題がある。
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常に、捨身飼虎(しゃしんしこ)に近いことをやってたら、もう生きてないよ。一回でも、捨身飼虎(しゃしんしこ)をやったら、生きてないのだから。
金でも親切でも、出血大サービスはだめだということだ。
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「人に親切にする……それは、単純によいことだ。なにを、ガタガタ言ってんだ?」と思う人がたくさんいると思う。まあ、普通はそうだ。けど、世の中にはいろいろな人がいるから「そうとは言えない」側面がある。
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捨身飼コ(しゃしんしこ)……コロナウイルスに自分の細胞をあたえて、死んでしまうこと。正確には、自分の体を構成している細胞の一部分をあげて、死んでしまうことなのだけど、これも、コロナウイルスに細胞の一部を食わせてやったということになる。自分の細胞を与えてコロナウィルスをやしなうという善行をしたことになる。善行をしたので、たましいの格があがる。
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コロナウイルスは感謝はしてないだろう。けど、それは、虎が感謝してないのとおなじだ。
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AさんがBさんになにか(X)をしてあげて親切にしたとする。けど、それは、AさんがBさんに、親切にしてあげたと思っただけかもしれない。Bさんがどう考えているかは、わからない。Bさんが、Aさんがやったことは、迷惑行為だと感じている場合、Aさんは、Bさんに親切にしたと言えるのかどうか?
たしかに、Aさんの頭のなかでは、たしかに、Bさんに親切にしたということになっている。
しかし、親切にしたということが固定されるには、Bさんが、Aさんに親切にしてもらったと感じてなければならないのである。そして、Bさんがそれを表明しなければ、わからないのである。
表明した場合は、AさんがBさんに親切にしてあげたといこうとが、「いちおうは」固定される。
しかし、これがまた、時間がたって、Bさんの気持ちに変化があった場合はどうかと言うと、時間がたって、Bさんが、あのときのAさんの行為は親切な行為ではなかったと思ったなら、そのときは、AさんのあのときのBさんに対する行為は、親切な行為ではなかったということになる。
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Aさんから見て、Bさんが「助かった状態」になれば、Bさんがどう感じているかは関係なく、AさんはBさんによいことをしたと思うことができるだろう。こういうのは、別にいい。けど、ほんとうにいろいろな人がいるから、「人に親切にするのはいいことだ」「人にお金をあげることで自分がしあわせになる」というような意見を真に受けてしまうと、不幸になる人が出てくる。
それは、いろいろな人がいるからだ。
ニュートラルな人たちばかりではないのだ。
感じ方すべてが自分勝手な人がいる。自分がよければ人はどうなってもいいという考え方を無意識的に持っている人たちがいる。意識的にはそうではないのである。これが厄介だ。意識的にも無意識的にも、人のことを利用することしか考えてない人たちもいる。
そういう人がたくさんいる社会で生きている場合、「人に親切にするのはいいことだ」「人にお金をあげることで自分がしあわせになる」というような意見を真に受けてしまう人は、ズタボロな状態になる。
出血大サービスで、輸血が必要な状態になってしまうのである。
本人に輸血が必要な状態になる。
しかし、本人に輸血が必要な状態で出血大サービスをしたらどうなるか?
死んでしまうではないか。あたかも、虎に身を投げ出すような行為だ。しかし、人間の社会ではそういう人が、ばかにされて、踏んづけられるのである。そういう部分ある。
けど、「人に親切にするのはいいことだ」「人にお金をあげることで自分がしあわせになる」というような意見を普通に言う人たちは、そんなことは考えてない。
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*1 いつもかならずしあわせを感じるということと、数回に一回はしあわせを感じることがあるということは、ちがう。
「人にしてあげることは、自分に返ってくる」とか、あるいは「親切にするのは他人のためではなくて自分のためだ」というようなことを言っている人が、想定しているのは、「いつもかならず」しあわせを感じるはずだということだ。ようするに、親切にしたとき、一〇〇%の確率で、人間という存在は、しあわせを感じるようにできているという前提でものを言っている。ぼくは、これはちがうのではないかと思っている。一〇〇%の確率じゃない。