2021年8月7日土曜日

(3)「人に親切にする……それは、単純によいことだ。なにを、ガタガタ言ってんだ?」「金でも親切でも、出血大サービスはだめだ」

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社会の底辺でズタボロになりながら生きている人……こういう人は、すでにいろいろな人にしんせつしてあげている。普通に、生きているとき、親切にしてあげている。別に、意図的に親切にしてあげようと思わなくてもいい。じゅうぶんに、親切にしてあげている。

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芸能人、有名な経営者……こういう注目されている人が数十億円の寄付をすれば、話題になる。そして、「あたえることでしあわせになる」というようなことがマスメディアやネットを通じで流される。そういう場合と、普通の人が行う普通の寄付はちがう。

「おカネの話ではなくて行為の話だ」というようなことになる場合も、同様のことが成り立つ。注目されている人が、大げさなことをする場合と、普通の人が普通のことをする場合はちがう。

けど、大げさなことをしている場合について、語ってしまうのである。

しかも、普遍的な一般法則として語ってしまう。

対象が人間、普遍的な一般法則なら、一〇〇%の人がやったばあい、一〇〇%そうなるということなのである。なので、誤謬が生まれる。

 対象が人間だということになっていると、そういうことが成り立たない人間が存在するので、そういうことが成り立たない場合があるのだけど、そういうことが成り立たない場合について、無視してしまう。

……ようするに、わかってない人が、「対象はすべての人間だ」と思って、そういう言葉について語ってしまうのである。人間というものは、親切にしたら、よい気持ちになる生き物だという前提がまちがっている。「人間は……だ」ではなくて、「人間のうちのある人間たちは……だ」ということなのだ。

ひかえめに言っても、じつは 「。人間というものは、親切にしたら、よい気持ちになる傾向がある」としか言えない。もし、そういうことなのであれば、もちろん、そうではない人もるということや、そうならない場合もあるということを暗に言っていることになる。「……という傾向がある」ということだから、「そうではない場合もある」ということになる。これ(アンケート調査から言えること)は、確率の問題であり、可能性の問題なのだ。どれだけ、複雑な統計処理をしても、確率の問題であり、可能性の問題であるという点は、かわらない。

幸福学について語っている人は……やったら……つまり、ほかの人に親切にしたら……一〇〇%、そうなる……つまり、しあわせを感じるようになる……という前提で語っているけど、ほんとうは、一〇〇%とは言えない。

成り立つ場合もあるけど、成り立たない場合もある。……そういうことについて語っている。しかし、語っている人は、一〇〇%成り立つと思っているのである。

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余裕のある人が人に親切にするのはいいことだけど、そういうことばかりではないのだ。余裕のない人はいる。余裕のない人が、「人には親切にするべきだ」「それが自分のためなのだ」というような説明にふれると、もっと余裕がなくなるのである。

こういう効果が、「人には親切にするべきだ」「それが自分のためなのだ」というような説明をする人にはわからない。「人には親切にするべきだ」「それが自分のためなのだ」というような説明をする人は、むかしはどうだか知らないけど、いまは、余裕のある状態になっているのである。

常に、だれがだれに対して親切にするのかということを問題にしない、普遍的な「親切」というもの考えているのだけど、それは、この世にはない。親切にしたつもりの人間が、ほんとうに親切にしたのかどうかわからないというところがある。

相手にしてみれば「ありがた迷惑」だったかもしれないのだ。こういうことは、だれがだれに対して親切にしたのかということが、本当は重要なのだけど、普遍的な真理? 普遍的な法則として語られてしまう場合には、そういう要素や、そういう要素から生じた現実が無視されてしまうのである。

そういうことのひとつの問題として、じつは、ただ単に「人には親切にするべきだ」「それが自分のためなのだ」というような説明をすること、自体の問題がある。

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常に、捨身飼虎(しゃしんしこ)に近いことをやってたら、もう生きてないよ。一回でも、捨身飼虎(しゃしんしこ)をやったら、生きてないのだから。

金でも親切でも、出血大サービスはだめだということだ。

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「人に親切にする……それは、単純によいことだ。なにを、ガタガタ言ってんだ?」と思う人がたくさんいると思う。まあ、普通はそうだ。けど、世の中にはいろいろな人がいるから「そうとは言えない」側面がある。

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捨身飼コ(しゃしんしこ)……コロナウイルスに自分の細胞をあたえて、死んでしまうこと。正確には、自分の体を構成している細胞の一部分をあげて、死んでしまうことなのだけど、これも、コロナウイルスに細胞の一部を食わせてやったということになる。自分の細胞を与えてコロナウィルスをやしなうという善行をしたことになる。善行をしたので、たましいの格があがる。

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コロナウイルスは感謝はしてないだろう。けど、それは、虎が感謝してないのとおなじだ。

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AさんがBさんになにか(X)をしてあげて親切にしたとする。けど、それは、AさんがBさんに、親切にしてあげたと思っただけかもしれない。Bさんがどう考えているかは、わからない。Bさんが、Aさんがやったことは、迷惑行為だと感じている場合、Aさんは、Bさんに親切にしたと言えるのかどうか?

たしかに、Aさんの頭のなかでは、たしかに、Bさんに親切にしたということになっている。

しかし、親切にしたということが固定されるには、Bさんが、Aさんに親切にしてもらったと感じてなければならないのである。そして、Bさんがそれを表明しなければ、わからないのである。

表明した場合は、AさんがBさんに親切にしてあげたといこうとが、「いちおうは」固定される。

しかし、これがまた、時間がたって、Bさんの気持ちに変化があった場合はどうかと言うと、時間がたって、Bさんが、あのときのAさんの行為は親切な行為ではなかったと思ったなら、そのときは、AさんのあのときのBさんに対する行為は、親切な行為ではなかったということになる。

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Aさんから見て、Bさんが「助かった状態」になれば、Bさんがどう感じているかは関係なく、AさんはBさんによいことをしたと思うことができるだろう。こういうのは、別にいい。けど、ほんとうにいろいろな人がいるから、「人に親切にするのはいいことだ」「人にお金をあげることで自分がしあわせになる」というような意見を真に受けてしまうと、不幸になる人が出てくる。

それは、いろいろな人がいるからだ。

ニュートラルな人たちばかりではないのだ。

感じ方すべてが自分勝手な人がいる。自分がよければ人はどうなってもいいという考え方を無意識的に持っている人たちがいる。意識的にはそうではないのである。これが厄介だ。意識的にも無意識的にも、人のことを利用することしか考えてない人たちもいる。

そういう人がたくさんいる社会で生きている場合、「人に親切にするのはいいことだ」「人にお金をあげることで自分がしあわせになる」というような意見を真に受けてしまう人は、ズタボロな状態になる。

出血大サービスで、輸血が必要な状態になってしまうのである。

本人に輸血が必要な状態になる。

しかし、本人に輸血が必要な状態で出血大サービスをしたらどうなるか?

死んでしまうではないか。あたかも、虎に身を投げ出すような行為だ。しかし、人間の社会ではそういう人が、ばかにされて、踏んづけられるのである。そういう部分ある。

けど、「人に親切にするのはいいことだ」「人にお金をあげることで自分がしあわせになる」というような意見を普通に言う人たちは、そんなことは考えてない。

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*1 いつもかならずしあわせを感じるということと、数回に一回はしあわせを感じることがあるということは、ちがう。

「人にしてあげることは、自分に返ってくる」とか、あるいは「親切にするのは他人のためではなくて自分のためだ」というようなことを言っている人が、想定しているのは、「いつもかならず」しあわせを感じるはずだということだ。ようするに、親切にしたとき、一〇〇%の確率で、人間という存在は、しあわせを感じるようにできているという前提でものを言っている。ぼくは、これはちがうのではないかと思っている。一〇〇%の確率じゃない。

 

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。