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手短に言うと「与えることでしあわせになる」「置かれた場所で咲きなさい」「感謝をすればいい」「すべては受け止め方の問題(受け止め方をかえれば現実がかわる)」というような一見、よさそうな考え方が、じつは、「できない人」を追い込むのである。 「性善説的な教え(受けの言語)」は「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」といった「攻めの言語」と対になってあらわれ、「できない人」を攻撃するのである。
これは、首を絞めるような効果がある。
実際には、できない人を自殺においつめるのは……一見よさそうな「攻めの言語」と一見よさそうな「受けの言語」なのである。
「できない」と言っている以上できないということを認めてあげたほうがいい。「できる」と説教することは、わるいことだ。
そして、はっきり言うけど、たとえば、「できない」と言っている人のうち、ほんとうはできる人がいると思う。その人は、人をだましして、たとえば、生活保護や障害年金をもらうということになる。だから、「できない」と言っている人のうち、できる人とできない人がいるという問題がある。しかし、これに関して言うと、「できない」ということにしておいたほうが全体の損傷が小さくなる。
自殺を減らすには、じつは、 「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」といった攻めの言語を減らし、「あたえることでしあわせになる」「置かれた場所で咲きなさい」「感謝をすればいい」「すべては受け止め方の問題(受け止め方をかえれば現実がかわる)」というような受けの言語を減らすべきなのだ。
社会に、攻めの言語と、それを補う受けの言語が流布しているので、「できない人」は死ぬしかないということになる。そういう圧力が、うみだされる。一見わかったような話である「受けの言語」も、じつは、攻撃的な言語だということに気がつかなければならない。
気がつくわけがないだろうけど。
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努力してできるようにすることが、わるいことなのか?と思う人がいるかもしれない。いちおう説明しておこう。努力してできるようにすることは、わるいことではない。けど、他人が、できないということを認めないのはわるいことだ。
たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、努力をしてできるようにすることはすばらしいことだと考えているとする。 実際にAさんは、いままで、できなかったことができるようになったことがある。そのとき、快感を感じた。そして、Aさんは「どんなことでも努力をすればできるようになる」と思ったとする。なので、そういう信念に従って生活していたとする。これは、別にいい。
しかし、Bさんができないということを、Aさんが理解しないというのはよくない。別の人の話……。ほかの人の話……。ほかの人が「できない」と言っているのに、ほかの人ができると思うのはよくない。
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