幸福学は「生まれの格差」を無視してしまっている。その人がそれまで経験してきたことを無視してしまっている。そりゃ、いやな思いをたくさんしてきた人は、不幸感があるだろう。
たとえば、仕事に積極的に取り組んでいる人は、幸福を感じやすい……仕事に消極的な人は、幸福を感じにくい……とする。
けど、仕事というけど、その仕事といのは、やりがいのある仕事なのかどうかということがまったく問題になってない。
そして、やりがいのある仕事にアクセスできる人は、それなりに、恵まれた人だと思う。仕事に消極的な人は、自分に合った仕事を見つければよいということになるかもしれないが、生まれの格差やそれまでの経験の差があるので、自分に合っていると思えるような仕事に就けない場合がある。
その場合、やはり、幸福感が低いのではないかと思う。自分に合った仕事をしているという点で、もう、「幸福であるという主観的な自覚」があるのではないか。
そして、それは、やはり、生まれの格差が影響している。
けど、生まれの格差なんて、たとえばの話だけど「仕事に積極的に取り組んでいる人は、幸福を感じやすい」というような項目のなかには出てこない。原因としても結果としても出てこなぃ。
生まれの格差は仕事の選択に影響を与えているはずだ。しかし、これも、たしかにそういうことが言えるということを調べてからではないと、なんとも言えないということになる。
「生まれの格差」ということになると、じつは、膨大な数の因子がかかわってしまう。しかし、やはり、「生まれの格差」は職業の選択に影響を与えると、ぼくは思う。思うだけなんだけどな。
楽しく仕事をしている人は幸福感を得やすいとする……。幸福感を得やすい仕事をしているから、楽しく仕事をしている状態が成り立っているのかもしれない。楽しく仕事のところを有益だと思える仕事をしている人はと言い換えてもおなじことが成り立ってしまうのではないか。
やりたい仕事をしている人は幸福感を感じやすい……やりたくない仕事をしている人は幸福感を感じにくいとする……。幸福だから、やりたい仕事ができるのではないか。幸福ではないから、やりたくない仕事をしているのではないのか。やりたくない仕事をしていて、幸福だということはあるのか? そりゃ、やりたくない仕事をしていても、家に帰ると、ものすごくかわいい奥さんがいて、しあわせだということはありえる。
しかし、仕事中はどうだ?
そもそも、やりたくない仕事をしなければならない状態というのは、不幸なのではないか。どうしてやりたくない仕事をしているのか?
とえば、やりたいことができる会社には入社できず、やりたくないことをする会社には入社できたので、やりたくないことをする会社で働いているとする。やりたいことができる会社に入社できなかったのは、そもそも、不運なことなのではないか。
不運であると感じる経験があるのだから、その経験をしたときは、不幸感があると言えるのではないか。その不運であると感じる経験の「延長線上にある」仕事は、やっぱり、楽しくないのではないか。
いづれにせよ、望めばどんなことだってできるということは実際には成り立たないので、たとえば、働いている時間のことを考えさて、働いているときに幸福かどうかを訊いて、そのあと、積極的に仕事をしているか消極的に仕事をしているかということを訊いた場合、やはり、積極的に仕事をしている人は幸福感を感じやすいということや、消極的に仕事をしている人は幸福感を感じにくいということが、言えてしまうのではないか。