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どうして、こういうことを言う人たちは、はめ込まれた条件や、それまでの文脈を無視してしまうのかと、疑問に思う。
一般的な傾向について、語っているにもかかわらず、絶対法則について語っているつもりになってしまう。対象となる人が、じつは限られているにもかかわらず、対象となる人が全人類だという前提でものごとを語ってしまっている。対象が限られているということがわかってない。
底辺ではいつくばって生きている人は、他人に「おカネ」をあげても、しあわせになれない。しあわせを感じることができない。そういうことを言えば、「おカネ」じゃなくてもいい。ものだって、いいし、親切にしてあげることだっていいと言ってくると思う。
最初は、「おカネ」の話をしているわけだし、三〇億円寄付したとか、全財産を寄付したとかと『感動の美談』としての条件を備えている。そういう話が話題になるのは、派手だったり、めったにないという意味でかわっている話だからだ。
いつの間にか、「おカネ」の話ではなくなって、親切にしてあげるということでもよいのだということになってしまう。「おカネ」に関して言えば、「おカネ」をどれだけあげたかという競争になってしまう。親切でもおなじで、どれだけ人に親切にあげたかという競争になってしまう。
親切だって、本人と、対象の人で感じ方や考え方がちがうので、かならずしも、相手も自分もしあわせになるとはかぎらない。かぎらないにもかかわらず、一〇〇%そうなるという前提でものを言っている。
対象が人間で、一〇〇%そうなるという前提で話をしているなら、頭がおかしい家族にやられて、不幸である人も対象になっている。
じゃあ、頭がおかしい家族にやられている人が、頭がおかしい家族に親切にしてあげれば、それでしあわせになるかというとならないのである。不幸なことに、頭がおかしい家族にやられている人が、頭がおかしくない普通の他人にしんせつしてあげた場合も、しあわせになれない。
そりゃ、最初は、たしょうのしあわせを感じるかもしれないけど、普段、頭がおかしい家族にやられているために、そのしあわせ感が続かない。他人に親切にして感じたしあわせ感が「一」だとすると、普段普通に家族にやられていることで生じる不幸感が「一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇」ぐらいなので、すぐに、しあわせ感が不幸感に打ち消されてしまう。
これは、頭がおかしい家族にやられている人だけではなくて、社会のなかでやられてきた人にもあてはまる。
ひとことで言って、社会のなかでやられ続けてきた人は、他人に親切にすることでは、しあわせになれないし、他人にお金をあげることでは、しあわせになれない。まあ、他人に親切にした場合、時と場合によっては、しあわせを感じることもあると思う。*1
しかし、そういうことを、積み重ねても、その人の「つらい現実」はかわらない。これ、かわらないのである。
しかも、「親切にしてやろう」という気持ちが強い場合は、意図的な親切になりがちなので、あんまりいいことにはならない。最初は、親切にしてあげて、Win-Win関係になったにもかかわらず、親切にしてあげることが習慣になって、けっきょくは、親切にしたほうが親切にされたほうに利用されるというようなことだって、発生する。
これが、人間社会。
だいたい、きちがい的な家族にやられている人や、損な役割を押しつけられている人は、ほんとうは、根がやさしくて、人に親切なんだよ。
搾取してやろうとしないの。
利用してやろうとしないの。
ほんとうは、そうやってこの世に存在しているだけでも人に親切にしているのとおなじだ。
けど、この「親切にする」ということの基準が、人によってちがうのである。ようするに、「なにが親切」で「どういうことをすることが親切なことをすることなのか」ということなのかについて、相当に考え方がちがう。そして、おカネではないけど、親切に関して競争するようなことになると、おカネのときと同じようなことが発生して、だめなのである。
けど、「親切にしてあげれば、しあわせになれる」というような「絶対法則」を提示されると、人間は「自分がしあわせになるために、ひとに親切にしてあげよう」とするわけなのだけど、意図的な親切というのは、そんなには、しあわせをもたらさない。むしろ、トラブルを招来してしまう。
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コロナウィルス(COVID-19)なんかより、ヘビメタ騒音のほうが重要な問題なんだよ。どうしてそれがわからないのか。ヘビメタ騒音がどれだけ有害かみんなわかってない。あの生活はない。あの生活をしてない人に、とやかく言われたくない。