基本的なことを言ってしまえば、きちがい家族にやられて、こまっている人は、きちがい家族に感謝しても、しあわせになれない。きちがい家族にやられて、ほかの人たちから誤解をされている人は、ほかの人たちに感謝しても、しあわせになれない。
社会のなかでやられまくった底辺の労働者は、ほかの人に「お金をあげて」もしあわせになれない。いままで、社会のなかでやられまくった底辺の労働者は、ほかの人に「親切にしてあげて」もしあわせになれない。
だれが、と言うことを考える必要がある。しかし、たとえば、「感謝することでしあわせになれる」と言った場合の対象範囲は、人間なのである。なので、無意識に問題があるきちがい家族に虐待されている人も含まれてしまう。
たとえば、ある人(家族の一員)が、めちゃくちゃにでかい騒音を鳴らし続けているのだけど、その人(家族の一員)は特にでかい音で騒音を鳴らしているというつもりがない場合、その人(家族の一員)に感謝をしても、親切にしてあげても、鳴らされている人はしあわせにならない。
騒音を何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らされていると、関係のない他者とのあいだにトラブルが発生しがちになる。その場合も、感謝をしたり、親切にしてあげても、しあわせになれない。問題がちがう。くるしみの根源がちがう。
「感謝をすればしあわせになれる」「人にあたえることでしあわせになる」というような話は、対象が人間だ。しかし、やられまくっている人間には成り立たないことなのである。
たとえばの話をするけど、くるしんでいる人間が「感謝をすればしあわせになれる」「人にあたえることでしあわせになる」ということを真に受けて、感謝をしたり、人にあたえるとどうなるか? トラブルが発生して、もっとくるしむことになる。
あるいは、問題の根源がかわらずに、くるしみ続ける。別に、そういうことをしたから、いい気持になったり、しあわせを感じるということがない。
それは、無意識的な人の悪意にさらされ続けて実際にトラブルが生じている人間だからそうなるのである。無意識的な人の悪意というのは、その悪い行為をする人のなかでは、あたりまえのことだから、その無意識的な悪意にしたがった行動というのは、無意識的に繰り返されることなのである。
迷惑をかけられた人が、こまって、「こまるからやめてくれ」と言ってきたとしても、そんなのは、発狂して無視しておしまいなのである。相手の言っていることを理解するということがないから、相手がこまっているということを認めないまま、ずっと、相手にとって「迷惑な行為」をし続けることになる。
あたりまえもなにも、人が呼吸をするように、迷惑行為をするのである。その人は、そういう原理で動いているから、ほかの人の働きかけとは関係なく、そういう人であり続けるのである。やり続ける。
++++++++++(1)