ほんとうにつまらないな。つまらない。おもしろいわけがないか?
ほんとうに、ヘビメタ騒音ですべてをうしなった。「けど、すべてではないでしょ」というような問いかけは、意味がない。
じゃあ、言い換える。「ぼくがほしいものはすべて、手に入らなかった」。
そして、たとえば、親友とか友人とか彼女といった、たいせつな人間を、うしなった。
まあ、人間そのものではなくて、人間関係なのだけど……。いろいろな機会を失った。いろいろな機会というのは、進学や就職の機会だ。学問研究を職業としてやる機会だ。いろいろな仕事をやる機会だ。ヘビメタ騒音がなければ……あったはずのさまざまな機会をうしなった。
ほんとうに、まるでちがうと思う。
きちがい兄貴が、きちがい兄貴でなければまるでちがう。きちがい兄貴が、ヘビメタに興味を持たなけれは、まるでちがう。ほんとうにできることがちがう。
そして、履歴として「やってきたことがちがう」ということになる。
人間なんて、他人を見るとき、肩書を見るんだよ。立場を見るんだよ。そうすると、立場や肩書に関する「せん妄」が始まる。まあ、偏見の眼で見るということになるのだけど、これが「偏見」と切り離せるものかどうかわからない。「認知」そのものだからだ。そして、その認知が、まちがっているとは、思えないのである。
きちがい兄貴のやり方があまりにもひどいので、ほかの人たち……鳴らされてない人たちが誤解をすることに「なっている」のである。ほかの人たちは、まるで、催眠術にかかったように、偏見に基づいた、よくあるパターンの反応をしめす。
まあ、催眠術じゃないのだけど。本人のなかにある偏見回路が働く。その偏見回路は、特に、本人にとっては、「偏見回路ではない偏見回路」だ。偏見じゃない。常識だと思っている。「それが正しい」と思っている。「これが間違いだなんてことはない」と思っている。
「これが、偏見だということはありえない」と思っている。
つまり、自分の「騒音体験」をもとにして、きちがい兄貴のヘビメタ騒音を考えてしまう。やはり、実際とはちがった、「騒音」を想像してしまうのである。そして、自分が思い浮かべた「騒音」について話をしてしまうのである。あるいは、自分が思い浮かべた「騒音」をもとにして、「人間は働くべきである」というようなことを考えてしまうのである。
こっちは、働『け』ないから、働けないと言っているのに、「騒音」ぐらいでそうなることはないと考えるのであれば、もちろん、その人が思い浮かべた「騒音」をもとにして、「エイリさんは働けるのに働けないと言っている」と判断してしまう。これが、自動的に発生する。まあ、「働『け』ない」と言っても「通勤して働『け』ない」ということだ。「働く」ということが、「通勤して働く」ということを意味しているのであれば、もちろん、そうなる。
いまは、たしょうちがうけど、むかしは、「働く」ということは「通勤して働く」ということを意味していたのである。
もちろん、例外はある。自営業者は自宅けん職場で働くことがある。しかし、普通の人が……働くと言ったら、通勤して働くことを意味していたのである。自営業者が働く場合も、なんらかの社会経験があるのが普通だった。
ようするに、会社に通勤して働いて、スキルとコネを獲得して、そして、自立するというようなことが一般的だった。あとは、作家とか芸術家か。最初から運よく、そういうことができた人。
そして、農業や林業、漁業に関しては、通勤はしないかもしれないけど、一定の時間に起きなければならないという意味で、俺にとっては通勤するのとおなじなのである。
農業や林業や漁業に関しては、親の影響がある。
普通に、普通科の高校を卒業した人は、通勤して働くのが一般的で、働くと言ったら、通勤して働くことだった。相手の頭のなかにある「働く」ということが、そういうことであり、ぼくが「相手が働くと言った場合、そういうことを意味しているのだろう」と思っている以上、働くというのは、通勤して働くことなのである。
内職? 内職なんて、都市伝説だよ。通勤できない人が、なんとか内職をして働こうとすると、ほぼ一〇〇%の確率で内職詐欺に引っかかってしまうような時代だったんだよ。
まあ、ともかく、「相手」というのは、自分が「ヘビメタ騒音」を経験したことがないから、その騒音がどういうものかほんとうに知らない。ヘビメタ騒音というのは、この場合、うちの兄貴によるヘビメタ騒音という意味だ。特別に言及しない場合は、ヘビメタ騒音といったら、うちの兄貴によるヘビメタ騒音を意味するとする。