「しあわせだと感じること」はかならずしも、しあわせだということではないのである。しあわせだと感じたとして、その持続時間が問題なのである。たとえば、いじめられて自殺を考えている女子中学生が、道で出会った、中年の女性に道を聞かれたので、丁寧に答えてあげたとする。その場合、その女中学生は、中年の女性に親切にした可能性が高い。中年の女性が「ありがとう」とにこにこして言ったとしよう。この場合、その可能性はかなり高くなる。ぼくが、作者なので「還元」はおこなわずに、親切にしたということにしておこう。そして、女子中学生は、一瞬幸せを感じたとしよう。けど、学校に行けば、いじめが始まる。学校に行く道のとちゅう……中年の女性とわかれたあと、どんな気持ちになるだろうか。自分がいじめられるような「学校」に行かなければならないというのは、気持ちが重いものではないだろうか。このとき、自殺を考えている女子中学生は「しあわせ」なのだろうか。ぼくが作者なので、しあわせではないということにしておく。問題は、親切にすればしあわせになる」ということが、そんなには簡単に成り立たないということだ。しかし、ニュートラルな人を集めて、人に親切にしたときに幸せを感じましたか、不幸せを感じましたか、なにも感じませんでしたか? と訊けば、たいていの人は「幸せに感じた」と答えてしまう。ならば、それが、一〇〇%成り立つのか。仮説をたてたとする。「人は、人に親切にしたときしあわせを感じる」という仮説を立てたとする。そして、アンケートでなくてなんらかの心理的な実験を行うとする。その場合、仮説の検定を行う時点で、確率論になる。けど、それを無視して、「人は、人に親切にしたときしあわせを感じる」という仮説は正しいと言ってしまった場合、ある種の誤解がしょうじるのである。
「しあわせを感じる」という場合の持続時間を問題にしなければならないのだ。そして、「くるしく感じる」「いたいと感じる」「かゆいと感じる」「いたがゆいと感じる」「怒りを感じる」「不愉快に感じる」「悲しく感じる」「不安を感じる」といった、ネガティブな感情の持続時間を考えなければならない。一日に一回、一分ぐらいしあわせを感じれば、一日に二三時間五九分、不しあわせだと感じていても、しあわせなのだろうか。