これ、言っちゃって、いいのかどうかわからないけど、……。どうするかな。あんまり、細かいことを言うのは問題があるしなぁ。けど、言っておくか。
いや、いいや。やめておこう。
ともかく、だれもが幸せになれる幸福論なんてないということだ。だいたい、年収八〇〇万円までは、年収と幸福感に正の相関関係があるとする。そして、年収八〇〇万円をこえたところから、年収と幸福感に負の相関関係があるとする。その場合、年収八〇〇万円以上の人は、不幸に感じる必要がないのに、金がありすぎて、不幸に感じているというような仮説が立てられる。
そういう場合、年収八〇〇万円以上の人に対する幸福論はあるかもしれないけど、年収一〇〇万円未満の人には、その幸福論は通用しないということになる。年収的にはみたされている?にもかかわらず、不幸だと感じる人と、年収的に満たされてないから、不幸だと感じる人は、ちがう感じ方を持った人たちだ。もし、「読めば、だれでも幸福になれるような幸福論」があるとしたら、その両方に対応していなければならないのである。
たとえば、生存が脅かされるレベルで貧乏なのであれば、幸福論では幸福にならないということを認めるのであれば、だれでも読めば幸福になるような幸福論はないということを認めているということになる。
生存が脅かされるレベルで貧乏なのであれば、必要なのは、じゅうぶんな食べ物や快適な家だ。まず、そういうものがみたされてからじゃないと、「幸福論」では幸福にならない。なので、「だれでも読めば幸福になれるような幸福論」はないと言える。生存が脅かされるレベルで貧乏な人は、幸福論を読んだだけでは幸せになれないということを、認めてしまっている。もし、読めば、だれでも幸せになれる幸福論があるというなら、「だれでも」のなかに生存が脅かされるレベルで貧乏な人は入ってないということになる。
「年収が八〇〇万円以上なのに不幸だ感じている人が読めば幸福になれるような幸福論」はあるかもしれないので、そういうふうに言うべきだと思う。「だれでも」とか「だれもが」という言葉は、敵をつくりやすいのである。
どうしてかと言うと生存が脅かされるレベルで貧乏な人が、「だれでも読めば幸福になれるような幸福論」読んだ場合、「自分は、『だれでも』のなかにはいってない」とか「まず、じゅうぶんな食べ物と快適な家が必要なのに、なにを言っているんだ」という感想を持つからだ。
『マズローの欲求五段階説』が正しいとする。その場合、『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされてなければ、幸福を感じにくい状態になる。『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされていなくても、しばし、人間は幸福を感じることがある。
一瞬かもしれないけどね。
その一瞬を抜かして、くるしいばかりの生活かもしれないけどね……。これに関して言っておくと、たとえ『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされてなくても、幸福を感じることがあるのだから、『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされてなくても、だれもが幸福を感じることができると言ってしまっていいものかどうか?
よくないと思う。けど、これの問題は、ちょっと横に置いておこう。
『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされて、はじめて、幸福を感じることができるとする。この場合、『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされてない人が、「誰もが幸福になれる幸福論」を読んでも、幸福にならない。
どうしてなら、『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされてないからだ。
もし、『マズローの欲求五段階説』が正しいなら、そして、しあわせを感じるには、まず『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされていなければならないということが正しいなら、「誰もが幸福になれる幸福論」はないということになる。『マズローの欲求五段階説』が正しいと言っているにもかかわらず、「誰もが幸福になれる幸福論」があると言うのであれば、それは、矛盾している。
+++++++++++
人間の幸福感には、実際に生じた出来事が影響を与える。実際に生じた出来事がつらいことばかりなのに、幸福感を感じるということはない。繰り返しが重要なのだ。
それから、「心理学の実験でも証明された」とか言うのはよくないことだ。これ、ほんとうはわかってない。もとの論文を読めば、どういう検定をしたということが書いてあるはずだ。で、検定というのは、確率論なんだよ。確率の話をしているの。
「人間は、親切にするとしあわせを感じる生き物だ」とは言えない。それだと、「親切にしたとき、しあわせを感じない場合がない生き物だ」ということになる。これは、ありえない。ぼくが人間で、ぼくの経験から言って、親切にしても、しあわせを感じなかったことがあるので、「人間は、親切にするとしあわせを感じる生き物だ」とは言えない。