やっぱり、ヘビメタ騒音でくるしい。俺は、どれだけ人から、誤解を受けてきたかわからない。どれだけ。どれだけ。どれだけ。ネットでもそうだけど、リアルではもっとすごいよ。だいたい、小学六年生のときから、ずっと誤解を受けてきている。その誤解というのは、やはり、ヘビメタ騒音に関する誤解だ。ヘビメタ騒音でできなくなることがあるのに、それがほかの人にはわからない。俺がどれだけ「ヘビメタ騒音でできない」と言っても、ほかの人は「ヘビメタ騒音でできなくなっている」ということを認めない。できるはずのことなのである。もちろん、ヘビメタ騒音がなければ、俺だってできる。けど、ヘビメタ騒音がずっとずっと、鳴っているので、できなくなる。この『できなくなるプロセス』がわからないのだ。ほかの人にはわからない。ヘビメタ騒音が毎日積もっていくということの影響・負の効果がわからない。わからないとなったらわからない。どうしてかというと、その人たちは、騒音は経験したことがあるけど、きちがい兄貴によるきちがいヘビメタ騒音は経験したことがないからだ。そして、ほかの人がわからないことは、もう、二つある。きちがい兄貴の性格だ。きちがい兄貴の態度と言ってもいい。きちがい兄貴の認識システムと言ってもいい。常識の範囲内に入ってないので、わからない。「そんな人はいない」という前提でもの考えてまう。「言えばわかるはずだ」という前提でものを考えてしまう。「ちゃんと説明をすればわかるはずだ」という前提でものを考えてしまう。そして、きちがい親父の性格に関してもおなじことが成り立つ。おかあさんも、じつは、親父とはちがうかたちで、普通の人とは、ずれまくりなんだよね。普通の人じゃない。そういうことがあわさると、普通の人は「そんな音で鳴っているのに、親が文句を言わないのはおかしい」と思ってしまう。全部まちがいなんだけど、普通の人は、自分が言っていることがまちがっているとは思わない。自分が言っていることの前提がまちがっているとは思わない。ということで、ぼくは、誤解を受ける。
で、体で感じるヘビメタ騒音の影響というのは、本当ずっと、毎日毎日、さらされた人じゃないわからない。これ、本当にきついのだ。すべての能力が下げられる。きちがいヘビメタで、人知れず、自分の能力が下げられた状態でくらすというのが、どれだけきついか、ほかの人にはわからない。まったくわからない。ほかの人の困難というのが、困難ではないのだ。たとえば、受験勉強をした。2か月ぐらい缶詰で勉強した……だから、たいへんだった。……これ、ヘビメタ騒音で、小学六年生のときから、中学三年間、ずっと毎日、勉強ができないという困難といっしょであるはずがない。ちなみに、缶詰でというのは、缶詰になってという意味で、缶詰になってというのは、ホテルや家にとじこもって、ほかのところにいはないでずっとひとつの作業をすることを意味している。ラストスパートで二か月間、自宅に?缶詰になって?勉強をした。夜までずっと勉強をした。夜までずっと、ヘビメタ騒音が、本当にでかい音で鳴っている状態というのがわかるか? 勉強なんてできない。勉強をしたいにもかかわらず勉強することかできないという困難と、勉強したいと思って勉強をしている困難では、室がちがうだろう。しかも、本当に、俺の場合は、中学の三年間毎日、ヘビメタ騒音が鳴っている。きちがい兄貴のこだわりようが、ほかのひとにはわからない。どんなこまかい時間も使って、絶対の意地で鳴らす。絶対の意地で鳴らし切れば、まったく鳴らしてないのと同じ気持ちになってしまう。そんなの、ほかの人にわかるわけがない。そして、もうひとり、そういう頭の構造をもった人間が、家族内にいるということが、どういう効果をもたらすか、ほかの人に、わかるはずがない。きちがい兄貴は自分がやりたい時間、自分がやりたい音で鳴らすことしか考えてないので、日曜日も、朝からずっと夜まで鳴らしてしまう。ヘビメタが鳴り始めて一分目の体の状態と、ヘビメタが鳴り始めて一三時間と一分目の体の状態は、ぜんぜんちがう。けど、これだってわからないだろ。日曜日、どれだけ「鳴らすな!!鳴らすな!!」「勉強をするからやめろ!!」と怒鳴り込んでも、きちがいが、きちがいの形相で無視して鳴らしてしまうのだ。そうなったら、もう、殺さなければ、やめさせることができない。この殺さなければやめさせることができないということは、きちがい親父が、幼児の俺におしつけてきたこととおなじだ。きちがい親父もきちがい兄貴も、「おしつけた」つもりなんてないんだよ。そんなのは、否定する。やったことさえ、時間がちょっとでもたてば、否定するわけだから、「おしつけた」なんて思ってないよ。けど、きちがい親父の「ハンダゴテ事件のときの態度」とおなじように、爆発して、意地をとおしているほうは、まったく、やっているつもりがない。さらに、自分がやっていることが、相手に影響を与えているということがわからない。自分の気持ちしかないからだ。自分がやっていることが相手に与える影響なんて、そんな高度なことが、わかるわけがない。そんなの、ミジンコに、人間の思考を理解させるようなものだ。自分の感情しかない化け物。自分がやりたくなったし絶対の意地でやって、絶対にほかの人の言うことを聞かない。けど、「聞かなかったつもり」なんて言うのもないんだよ。「無視したつもり」もないんだよ。自分がやっていることで相手がこまったとか、こまっているんだなということを、感じることが一切合切できない。自分はやるし、相手がこまるということはないか、あるいは、相手がこまるということ自体を、そうなる可能性を含めて認めないので、自分のなかでは、「相手がこまっている」あるいは、「相手がこまった」ということにならないのである。自分のなかで「相手がこまっている」あるいは、「相手がこまった」ということにならないのであれば、何千回何万回、おなじことをして、相手を困らしていても、そういう行為をして相手を困らせたということをしてないということとイコールになってしまうのである。どれだけ、実際にやっても、やったことにならない。何万回やっても、そんなことは一回もしてないという認知が成り立ってしまう。あるいは、「やったかどうか」に対してまったく関係がない状態が成り立ってしまう。実際にやったことでもそうだ。相手のことが最初から、わからない。相手の存在が最初からわからない。相手だって、自分とおなじように、感情がある人間なのだということがわからない。自分のやりたいという感情が張り出している状態で、ほかの人の感情が入ってくる余地がまったくない。だから、発狂して、発狂的な意地でやり切ったことなのに、やったつもりがないままなのである。これは、現在進行形でそうなる。そしてもちろん、過去形でもそうなる。そりゃ、そうだろ。現在進行形で認知してないものを、認知できるのか? 現在進行形で認知したから、過去においてそうしたということがわかるわけだろ。過去においてそうしたという認知が成り立つわけだろ。現在進行形で「やったってやってない」が成り立っているのであれば、「過去のある時点で、自分がそうした」という認知が成り立つわけがない。
ヘビメタ騒音でつらいのは鳴っている時間だけじゃないのである。むしろ、鳴っていない時間、ほかの人からずっと、誤解をされてくるしいということになる。自分の能力を一〇分の一にさげられて、この競争社会で暮らしてみろ。けっきょく、勝てば官軍、負ければ賊軍だ。幾何級数的に、侮辱が積み重なっていく。幾何級数的に「困難」が積み重なっていく。これ、ほんとうに、まるでわかってないんだよな。ただ単に、普通に通勤通学をすることができなくなって、レールからはずれたということだけで、どれだけの、困難がつみかさなるか……。つみかさなるか、レールからはずれたことがない人にはわからない。俺の場合は、それだけじゃない。根本が、きちがいヘビメタだ。きちがいヘビメタなしでも、レールからはずれれば、困難がつみかさなる。それは、幸福論なんかを書いている作者が住んでいる世界とはちがう世界だ。これが、幸福論を書いている作者にはわからないのである。まあ、幸福論はいいよ。そんなもの、ほかの「普通の人」は相手にしてない。幸福論の作者と普通の人のあいだには「困難」においてひらきがあると思うけど、普通の人とぼくとの間には、もっともっとでかいひらきがある。
普通の人が、人生のなかで経験した騒音とはちがう。普通の人が、人生のなかで経験した騒音とはちがうのに、普通の人は、それがわからないまま、普通の騒音ときちがい兄貴によるヘビメタ騒音が「おなじものだ」という前提でものを判断し、ものを言う。