これを言ってしまってはおしまいだけど、破滅破綻がつみかさなっている。
「子供にまるまる体験」などと言っている親の感覚とはちがうんだよ。
「子供をまるまるにのせてやろうと思って、いっしょにまるまる体験をしてきた」などと書いてしまう親。俺がなにを言っているか、こういうことが普通の家に生まれた人にはわからないだろう。
きちがいの親と一緒に行動するということがどれだけおそろしいことか、わからないだろう。きちがいやくざと一緒にいるということがどれだけつらいことかわからないだろう。
これは、収入の問題ではない。
けど、きちがいやくざであって、なおかつ収入が少ない親はいる。ダブルパンチだ。けど、収入の少なさの話をしているときは、収入の少なさに焦点があってしまう。そうなると、収入が少ないにもかかわらず、人格はまともな親に育てられた人が、いろいろと言うことになる。
で、それは、正しいのだけど、焦点は、人格がまともな親にあってしまっている。言っていることがわかるだろうか。ようするに、世の中には、「人格まとも・金持ち」「人格まとも・貧乏」「きちがい・金持ち」「きちがい・貧乏」という四種類の親がいる。そして、この四種類の親を、子供は選べない。そこに生まれたら、そこの親の影響をどうしても受ける。
けど、「きちがい・貧乏」のダブルパンチを食らった人は、少ない。それは、人格がまともな人ときちがいとでは、きちがいのほうが少ないからだ。はっきり言ってしまうと「きちがい・貧乏」な人と「人格まとも・貧乏」な人とは、話があわない。あわないんだよ。そして、基本的なことを言ってしまうと、世間で取りざたされるのは、「人格まとも・貧乏」の話だ。こっちに、焦点があってしまう。これ、「きちがい・貧乏」と「人格まとも、貧乏」は、どっちとも、収入が少ないという意味で貧乏なんだけど、質がちがう。問題の質がちがう。
そして、「人格まとも・貧乏」VS「人格まとも・金持ち」の話になってしまうのである。これは、話自体が分かりやすい。「人格まとも・貧乏」と「人格まとも・金持ち」の比率を比べれば、「人格まとも・貧乏」のほうが比率が高い。
なので、「人格まとも・貧乏」が言っていることは、共感を得やすい。しかし、「人格まとも・貧乏」と「きちがい・貧乏」のあいだには、ふっかーーーい溝がある。溝がある。けど、「きちがい・貧乏」しか、その溝に気がつかない。「きちがい・金持ち」は、「お金の問題ではない」という話のときに、ちょっと、例として、出てくる。
「金があったって、しあわせとは限らない」「金はしあわせ感に影響を与えない」ということの例として出てくるのだ。今までの話で「人格まとも・金持ち」「人格まとも・貧乏」「きちがい・金持ち」「きちがい・貧乏」」というのは、そういう親を持った子供の話だ。
けど、「金があったって、しあわせとは限らない」「金はしあわせ感に影響を与えない」ということに、話がうつっている場合は、まあ、本人が金持ちで、しあわせではない人の話だ。ここらへんも、焦点のあいかたがちがう。
まあ、親が「きちがい・金持ち」である子供は不幸だ。これは、はっきりと言える。「まともな人」だっていろいろな不遇が重なっておいつめられているときは、「きちがい」的な行動をすることがある。けど、つねに狂っている人と、おいつめられたときにきちがい的な行動をする人は、ぜんぜんちがう。そこらへんの区別は大切だ。
ときどき、悪いことをするのと、つねに悪いことをするのはちがうから……。けど、これも、わかってないんだろうな。たとえば、子供に八つ当たりをするとき、八つ当たりをしているという自覚がちょっとでもある親と、子供に八つ当たりをするとき、八つ当たりをしているという自覚がまったくない親とでは、やっぱり、ぜんぜんちがうということだ。自覚があるほうが、ときどきは、理不尽なことで怒るとはいえ「まともな親」で、自覚がないほうは、きちがいだ。これは、猛烈に重要なことなんだけど、「俺だって……」とか「うちのおやだって……」という話になると忘れがちな点だ。普通の人の範囲に入る人は、普通の人だ。