たとえば、「あたえること」はいいことだとする。そうすると、あたえることに関して競争が始まる。「たくさんあたえた人」が勝者だ。「少ない人」や「あえることができない人」は敗者だ。こういうことは、宗教団体の内部で発生することがある。より多く寄付した人がえらいというというとになる。寄付ができない人は、惨めな思いをすることになる。「あたえることでしあわせになる」ということが言われ、だれだれさんが三〇億円寄付したということが、美談として語られるなら、あたえることができない人は、惨めな思いをすることになる。
あるいは、あたえられるほうは、あたえられることで、人をしあわせにしてあげているのだから、惨めに感じる必要はないのだけど、あたえられることによって人をしあわせにしてやったのだから、いいということを言ってしまうと、問題があるかもしれない。
人間は、そういうところがある。
「あたえられることで、人をしあわせにしてあげている」というのは、「あえることで、しあわせになる」という理論が成り立っていればの話だ。そういう理論が成り立っていなければ、成り立たない話だ。宗教団体内では、ありふれた考え方かもしれないけど、普通の人が普通に暮らしている場合、「あえることで、しあわせになる」という考え方は、いつも成り立つわけではない。あたえられたら、感謝するべきだという考え方が支配的だろう。