ヘビメタ騒音で、足をひっぱられて、やってられない。ずっとずっと、やられた。これはもう、取り返しがつかない。
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たとえばの話だけど、きちがい的な家族と一緒に住んでいたら、どんな「幸福論」を読んでもしあわせになれない。しあわせを感じない。どうして、そういうことがわからないのか? たとえばの話だけど、きちがい的な親に、きちがい的な理論、きちがい的な感覚で、虐待されている子供がいるとする。この子供が、「だれでもしあわせになれる幸福論」を読めば、しあわせになれるか? しあわせを感じることができるか? ぼくはできないと思う。たてまえの感情しか出てこない。自分がほんとうに感じていることを、ニセの理論で書き換えて、納得しようとするような努力をするしかないのだ。しかし、「しあわせだと感じること」と「しあわせだと感じるように努力すること」はちがう。また、「しあわせだと感じているときの精神状態」と「しあわせだと感じるように努力していると感じているときの精神状態」はちがう。激しく頭にくる状態で、なんとかしあわせだと感じようとしている状態が、いい状態だと思えるか? 同じ家に、家族として住んでいるきちがいが迷惑行為をして、きちがいに注意たにもかかわらず、きちがいが絶対の意地で、迷惑行為をした場合、……きちがい行為をされているにもかかわらず、「しあわせだ」と感じることができるか?
きちがい家族が、きちがい的な意地で、がんがん、きちがいヘビメタを鳴らしているのに、しあわせだと感じるように自分をしむけているときの切羽詰まった感じはないね。