なになにができないことを、なになにができないという障害があると表現しているのだ。しかし、言葉がひとりあるきすると、なになに障がい者だから、なになにができないと表現されることなってしまう。
これは、トートロジーだ。
どういうことかと言うと、たとえば、簡単な計算問題ができない人がいるとする。この人にテストを受けさせる。その場合のテストというのは計算量を試すテストだ。
で、このテストの結果、この人には計算能力に関して知的障害があるということになったとする。そうなると、この人は計算にかんして知的障がい者だということになる。
この人が、ある職場で計算ができなかったとする。その場合、「知的障がい者だから計算ができないのだ」という表現が成り立ってしまう。知的障がい者だから?まるまるができない? まるまるができないということがテストで確かめられたから(認定されたから)知的障がい者なんだろ。一回転している。
例1
計算ができないから、計算における知的障がい者だ。(できないから→障がい者)
計算における知的障がい者だから、計算ができない。 (障がい者だから→できない)
例2
言葉がうまくしゃべれないから言語障がい者だ(できないから→障がい者)
言語障がい者だから、言葉がうまくしゃべれない(障がい者だから→できない)
こういうことは、おさえておいたほうがいい。本当のできない理由に関しては、語られていない。脳みそのどういうところに問題があるから、計算ができないのかということがわからない。
ある仕事のある作業のなかに、計算能力が隠れていたとする。いちおう、電卓持ち込み禁止、電卓機能アプリ使用禁止で、暗算でやる必要があるとする。ある作業は、複数の能力要素かがかかわっているとする。しかし、複数の能力要素がなんなのであるか分析されてないとする。
ある知的障がい者が、普通にその作業のアルバイトをする仕事に応募したとする。そして、とりあえず、採用されたとする。しかし、その知的障がい者は、その作業ができない。どこがどうというわけではないけどできないのだ。
だいたい、その作業の能力要素のうち、ほかのものも、できない要素であるかもしれない。作業が複数の能力要素に分解されているということはない。作業のなかに混ざり合っている。
能力要素に分解するということが言えるのではないかということが、研究をすればわかるというレベルだ。要素に分解すると言ったけど、これは、「視点」を含む。視点ちがうのであれば、還元される能力要素がちがってしまう。なので、わりとめんどうな話なのだ。
だいたい、おのおのの職場で、この作業をするには、こういう能力要素が必要だということが、明らかにされているわけではない。
その場合、「なんだか知らないけど、できない」ということが、ある。さらに、時間をかければできるというのではだめなのだ。制限時間内に、求められる個数を処理しなければならない。そうなると、これも、要素に還元できるのだろうけど、作業のはやさ(機敏さ)が求められるということになる。なので、計算能力のほかに機敏さにおいて障害がある(と言えるレベルだ)ということになると、努力をしてもできないということになる。