なんか、新しいネズミの糞があるような気がする。あれは、ネズミシートを片づけたときに落ちたものなのだろうか?
じつは、仏壇とか神棚をどうするかまよっている。とくに、神棚は問題だ。仏壇から、ネズミが飛び出してきたときには驚いたよ。仏壇には、殺虫剤がかかっている。仏壇自体はともかく、位牌にも殺虫剤が何度かかかった。なので、お坊さんには「殺虫剤がかかったことがある位牌なので、手袋をしてね」と言う、必要がある。
ネズミの件を言わないで、それを言うのが困難だ。 ネズミの件を言うとなると、親父の件も言わなければならない。親父が意地をはらなければ、こんなことになってないのだ。ところで、親父がうちにいれば怒り狂っている時代、親父は神棚に手を合わせていたのだ。俺は「そんなことをするなら、きちがい的な理由で怒り狂うのをまずやめてくれ」と思っていた。
いちおう、しあわせを願って、神棚に手を合わせるわけだろ。きちがい親父がきちがい的な理由でいつもいつも怒り狂っているので、うちの人はしあわせじゃないんだよ。「そんなのに祈ってないで、普通の人になってくれ。きちがい的な理由で爆発するのはやめてくれ」と思っていた。いつもいつも思っていた。
親父は、神棚にお祈りする前に、パンパンと「かしわで」を打つ。親父は、でかく音が響くように思いっきり、手を打つわけだけど、俺は、それが、いやでいやでしかたがなかった。
「はやく、会社に行ってくれないか」「はやく、家からいなくなってくれないか」と布団のなかで「死にそうな気分で」思っていた。あの、憂鬱はない。
俺にとって「元祖、朝の憂鬱」だ。
これ、本来は、尊敬すべき父親が、自分を虐待してくるということが、どういうことなのか、やられたことがない人にはわからない。どれだけ、広範な範囲に、被害が及ぶか想像もつかないと思う。神棚のしめ縄は、じつは、お母さんが死んだとき、とってもらった。親父にとらせた。それは、もう、俺が四〇代になったあとだ。
こういう、時間の流れも、時系列的なことを無視する人には、わからないことかもしれない。「しめ縄をとってくれたのだから、いいお父さんじゃないか」とか「けっきょく、自分の意地(エイリの意地)を通すことができたのだから、お父さんが、おまえ(エイリ)の言うことを、聞いたということじゃないか」と思うかもしれない。
いちおう、この、しめ縄をとってもらったということは、不公平になるから、書いておかないといけないと思って書いているけど、いろいろと誤解をよびそうなので、書きたくはない。これ、いろいろと複雑なんだよな。「なんか、やってほしいことがあるか」と、聞いてきたのでしめ縄をとってくれと言った。お母さんが死んで、いろいろと、お母さんの持ち物を片づけているときだ。
それなら、たとえば「まったく言うことを聞かない頑固おやじではなくて、聞くこともある親父なのではないか」と、まったくわかってない人は思うだろう。ちがうのだ。これ、ほんとうに、言いにくいなぁ。親父が家で、発狂していた時代は、きちがい兄貴の体が大きくなった時に、いちおう、おわる。
けど、きちがい親父の性格がかわってしまったわけではないのだ。親父の性格や親父の認知機能がかわってしまったわけではない。感覚器を書き換えるような性格がなくなってしまったわけではないということが重要だ。
まあ、きちがい親父が、いばっている、きちがいおやじ時代が終わったけど、きちがい兄貴がいばっているきちがい騒音時代が始まってしまったのだ。親父の頑固さと、きちがい兄貴の頑固さはおなじだから……こまる。あとは、自分がなにもやってないという意識、認識が続くというのもおなじなんだよ。
こんなの、ない。
きちがい的な頑固さでやり続ける……毎日やり続けるのに、やっているつもりもなければ、やったつもりもない、というきちがい感覚。しかも、相手(困っている家族)は、毎日、言っているんだぞ。
これも、毎日言われているのに、ずっと、何十年も「わからないまま」暮らすということが、どういうことなのか、普通の人には、まったくわかってない。ここらへんだって、絶対にわからないことだ。
普通の人の単純な思考だと、これ、わからないんだよ。
家にいるきちがい親父のことや、家にいるきちがい兄貴のことは、普通の人にはわからない部分がある。この部分のおかげで、どれだけ俺が誤解を受けてきたか。普通の人から誤解を受けてきた。そして、その誤解は、続く。俺が生きている限り続く。
++++(つづく)