比較をするなと言ってもむりだ。どうしても、比較してしまう。
人間は、比較をする生き物だけど、特に、近代以降は他者との比較が、自我に影響を与えている。あまりにも、自我に影響を与えすぎるので、「比較をするな」「他人とくらべてもしかたがない」というようなことを、声高に言わなければならなくなる。
問題なのは、近代の教育が、比較を強制するということだ。問題なのは、「どんくさいやつ」がいじめられる土壌を近代教育自体がつくっているということだ。近代教育が「どんくさいやつ」をいじめるように、生徒をしむけている。
なので、近代教育というものを強制しておきながら、「どんくさいやつ」をいじめるなと言っても、基本的には無理なところがある。近代教育が「どんくさいやつ」は迷惑をかける存在だと教えている。近代教育が「どんくさいやつ」を「迷惑をかける存在」にしたてあげている。
近代教育がなければ、「どんくさいやつ」は、迷惑をかける存在ではないのである。どうしてなら、そもそも「クラス」がないのだから、足がおそいということで他人に迷惑をかけることができないからだ。クラス対抗リレーをしないのに、どうやって、足がおそいことで、ほかの人に迷惑をかけることができるのだ?
クラス対抗リレーをやるとすると、足がおそい人(どんくさいやつ)は、クラスのみんなに迷惑をかけるということになってしまう。これは、必然的なことだ。
どんくさい人というのは、基本的に動作がおそい。これは、他人にくらべて「動作がおそい」ということであって、絶対値ではない。動作がはやいやつもいれば、動作が普通のやつもいれば、動作がおそいやつもいる。比較だ。他人との比較にほかならない。
これも、ノーマルカーブを描くとなると、下位二〇%に入る人が、かならず出てくる。ゼロにはできない。さらに、動作がおそい人は、動作をはやくすることを、求められるのである。
そりゃ、みんな、クラス対抗リレーに勝ちたいとすると、おそい人がはやくならなければならなくなる。さらに、日本の場合、努力すればできるようになるという考え方を持っている人間によって、集団が構成されている。
また、教師は、努力すればできるようになるという考えを持っていて、なおかつ、クラス(学級)を運営しなければならない立場なのであるから、当然、そうする。動作がおそい人は、「努力をする」ことで、やっと、クラス(学級)のなかでの存在がゆるされるということになってしまうのである。
これは、作為的なことだ。
どうしてなら、地域の子供たちが自主的に集まって、「クラス」なるものをつくり、クラス対抗リレーをしているのではないからだ。自発的な集団ではないのである。
その地域の子供たちが、その地域に住んでいるという理由でその地域にある学校に集められる。
学校では、学年というものがある。そして、クラスが八クラスとあるとすれば、八クラスになるべく均等に、子供たちが振り分けられるのである。この均等というのは、学力や体力が均等に割り振られるということだ。
ひとつのクラスに、勉強ができるやつを集めたり、ひとつのクラスに体育ができるようなやつを集めるということは、しない。私立ならそういうこともあるかもしれないけど、公立ではそんなことはない。クラス対抗リレーをするときには、そんなには、差がつかないクラス構成になっている。
だから、どのクラスにも、足がはやい人が数人はいるということになる。どのクラスにも、足がおそい人が数人はいるということになる。これは、必然だ。
だから、各クラスにいる、足のおそい人は、足がおそいということだけで、「迷惑をかける」存在に「なって」しまうのである。そして、「努力」するか、あるいは、「努力」するふりをして、やっと、クラスに受け入れられるのである。
「努力をしたのにできないのであればしかたがない」という理由で、やっと、クラスのなかに存在することがゆるされるような存在なのである。「努力」をしないのであれば、非難される。「迷惑をかける存在」なのだから、「努力」しないで、そのままの状態でいることは、「ゆるされることではない」のである。
「努力」をするか、あるいは、「努力」をするふりをして……と書いたけど、実際には、努力をするふりは、見抜かれる。 子供たちも、教師も、こういうことに関しては、敏感で、ちゃんと「ふりをしているだけ」なのか「努力しているのか」わかるのである。
なので、「努力するしかない」ということになる。
努力をしたって、たいしてはやくはならないだろう。これは、成長をまつしかないのだ。ほんとうは、成長をまったほうがいい。その子供だって一年前よりは、はやく走れるようになっている。たいていは……。そうではない子供もいるかもしれないけど、それは、それで、また発達障害がうたがわれる状態になる。
足がおそいと、おそいだけで、ばかにされるだけではなくて、「迷惑をかける存在」になってしまうのである。そして、「努力をしないと存在することすらゆるされないような存在」になってしまうのである。なのであれば、「人と比較をする必要はない」などと言ってもむだだ。「足がはやいかおそいかは、人格とは関係がない」などと言ってもむだだ。
他人と比較をして、くるしむようにできている。あーそれなのに、それなのに、「足がおそいだけで文句を言われる」学校というしくみをつくっておきながら、その学校というしくみのなかで「他人とくらべる必要はない」ということを教えている。
こんなのは、矛盾している。
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ラフな文体で書いたけど、かなり重要なことを言っているんだよ。近代教育というものについて考えようではないか。教育学に興味を持っている者のうち、俺が言っていることがわかるやつが、どれだけいるのか?
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えーと、それから、仕事場での、反応もおなじだから……。佐藤はどうして、気がつかないんだろう。ぎりぎり健常者の問題というのは、障碍者の問題とおなじなのに、まったく気がついてないんだよな。「人間は働くべきだ」という共同幻想と合致した労働観しか持ってない。
学校(クラス)で居場所がないやつは、職場でも居場所がないやつになる可能性が高い。それは、たとえば、「おそい」「はやい」という比較の軸を考えるとわかる。「おそい」やつはどうしても、足をひっぱる迷惑な存在になるのである。底辺の職場にしかアクセスすることができないのだけど、底辺の職場では、圧力を加えられた底辺先輩がいるのである。底辺先輩は、怒りのエネルギーをため込んでいるのである。「した」ができたら、いじめてやるつもりでいるのである。「おそい」人のぶんだけ自分が頑張って、サポートしようなんて、考えない。かりに、人格者がいても、長くは続かない。どうしてかと言うと、おなじ時給でおその人のサポートをするのは、どうしても、わりがあわないからだ。どうしたって、人間なら、負の感情が芽生える。かりに、会社がサポートをする人の時給をわずかにあげたとしても、長くは続かない。人間には限界があるから、負荷が高いことが続くと、対応ができなくなる。人格者だって、つかれる。だいたい、人格者がサポートしてあげるということは、おそい人がサポートをされるということになる。これは、おそい人にとって、気分がわるいことだ。どうしてかというと「かり」ができてしまうからだ。いにくくなるだろ。その場所にいにくくなる。
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これは、カネモッチーが、「感謝してまわせば、白玉が出る」と言っているようなものだ。似ているところがある。しかし、ここでは、そのことについては言及しない。
(なんとなく、もっともそうな嘘情報を流すという点で似ている。言ってみれば、メタ部分が結論をつくっているのに、そのメタ部分の結論を認めないで、サブシステムとしてよさそうな「反論」をつけ加えるということころだ。カネモッチーの話でいうと、生まれの差で決まっているのに、それは無視して、サブシステムとして、よさそうなことを言う。なんとなく、もっとそうな話というのは、注意したほうがいい)