感じ方の問題だから、意識的な意志で書き換えられること……というのは、少ない。小さい範囲のことでしかない。
しかし、よく考えない人たちが、すべて書き換えられると、あほなことを言っている。「すべて書き換えられる」と言っている人たちは、自分の実生活のなかで、じつは、書き換えられないことを体験しているのだけど、それに気がつかない。
ニュートラルな状態のとき、ややネガティブだと感じることが起きたときだけ、自分が「書き換えられるような」全能感を感じるのだ。しかし、それは、事前に選ばれている。
ほんとうに「書き換えなければならないこと」は、そのまま、感じたままになってしまう。つまり、自分が形成してきた感じ方の通りに感じるということになる。そのときは、「書き換えることができる」ということすら、頭に浮かんでこないのだ。
この人たちは、普通に怒ったり、よろこんだり、楽しんだり悲しんだりして暮らしている。それが普通にできるのは、じつは、 自分が形成してきた感じ方の通りに感じているからだ。
ようするに、すでに出来上がっている感じ方に頼り切っている。そして、頼り切っているということも忘れてしまっている。
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よろこぶことと、楽しむことは、それぞれ、効率が良いので、問題がない。人生の時間が限られているので、効率よく、楽しんだよろこんだりしなければならないのだ。悲しんだり怒ったり時間は、効率が悪いので、なるべく短くする必要がある。これは、ポジティブなことはいい・ネガティブなことは悪いという価値観と、ネガティブなことに時間をかけるのは効率的ではないという価値観の組み合わせで成り立っている。
たとえば、父親が死んだとき、悲しむ時間の長さで、効率が良いとか悪いということが決まる。ずっと悲しんでいるのは、効率が悪いのである。だから、なるべく短い時間、悲しんで、あとは、楽しくするのがよいと考えているのである。一秒間悲しんだあと、二秒目から、楽しんだほうがいいということになる。認知療法では、さすがに、そういうことは言わない。適切な悲しむ時間があるというのだ。そのとき、悲しんで、適切な時間をすぎたら、悲しまず楽しく暮らせばよいということになる。適切な時間というコンセプトを出しているけど、ネガティブなことに時間をかけるのは効率が悪いという考えはおなじだ。この「ネガティブなことに時間をかけるのは効率が悪い」という考えはそのまま、価値観なので、そういう価値観を持っているということが言える。認知療法は「価値観中立的」ではない。また、なにがネガティブなことで、なにがポジティブなことなのかは、議論の余地なく、「なんとなく」決まっているのである。なにがネガティブか、なにがポジティブかを決めるには、本人がどのくらい意識しているかは別にして、「価値観」が必要なのである。このような意味でも、認知療法は「価値観」を持っている。価値観中立的ではない。
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