「まるまるになる」と言ったから、まるまるになったのかということについて考えてみよう。
精神世界の人たちは「まるまるになる」と言ったから、まるまるになったという言い方が好きだ。
たとえば、「イチローは野球選手になる」と小学生のときに言った。だから、イチローは野球選手になれた。……というような話をするのが好きだ。このあと、「だから、まるまるになると言えば、なれる」という話をするのだ。
ぼくは、野球にまったく興味がない。だから、どのくらいの数の小学生が、野球選手になりたいと思っているのか、まったくわからない。そして、「野球選手になる」と言った小学生のうち、実際に、野球選手になることができた人がどのくらい、いるのかわからない。だから、数字自体は適当な話をする。調べるつもりもないからだ。
たとえば、一〇〇〇人の小学生が「将来、野球選手になる」と言ったとする。そのうちのひとりが野球選手になれたとする。九九九人は、「将来、野球選手になる」と言ったにもかかわらず、野球選手になれなかった。なのであれば、「まるまるになると言うと、まるまるになれる」ということは一〇〇〇人のうち九九九人には成り立たなかったということになる。
だから、「イチローは野球選手になると言ったから、野球選手になることができた」という理論はまちがっている。「言ったから」ではないのだ。
イチローには、ほかの九九九人とはちがう才能があったのではないか。イチローには、野球の才能があったから野球の選手になったと考えるほうが自然だ。「野球の選手になると言ったから」ではなくて「野球の選手になれるだけの才能があったから」野球の選手になれたのでないか。
まあ、なりたいという意志は重要だ。
才能があったとしても、なりたいと思わなければ、ならないのだから、なりたいと思うことは重要だ。
しかし、なりたいという意思よりも、才能や環境のほうが重要だと思う。精神世界の人は、なりたいという意志だけを重視して、才能や環境は無視してしまう。
「なりたいという意志」「才能」「環境」のみっつが重要なのだ。「なる」には、みっつとも必要だ。ほかのふたつが欠けていたらだめなのだ。さらに言ってしまえば、ひとつでも欠けていたらだめだ。
たとえば、「なりたいという意志」があるけど「才能」と「環境」はないとする。この場合は、なれない。「才能」と「環境」があるけど、「なりたいという意志」はないとする。この場合は、ならない。
「環境」はあるけど「なりたいという意志」と「才能」がないとする。この場合は、なれない。「なりたいという意志」と「才能」があるけど、「環境」はないとする。この場合も、なれない。
「なりたいという意志」と「才能」があれば「環境」を手に入れることができるか?
アニメや漫画だと、「なりたいという意志」と「才能」があれば、環境を手に入れるということかできる場合のほうが多い。そうじゃないと、ものがたりがはじまらないしね。
けど、実際の世界では、「環境」がなければ「才能」があるかどうかもわからない場合のほうが多い。「才能」があれば「環境」が用意されるかというと、用意されない場合もある。きちがい家族によって「才能」が完全につぶされてしまう場合もある。
「環境」が手に入れるられる場合は、そういう「環境」がすでにあったということだ。そういう「環境」を手に入れるための、もとの「環境」があったというとだ。「大きな環境」を手に入れるための、「小さな環境」はあったと考えるのが妥当だ。
どれだけ、才能があっても、環境がなければ、なれない。そこで言っている才能なんて、開花しない。才能があるということさえ、本人によって、認識されない。才能があるということさえ、他人によって「発見」されない。その子供に才能があるということを、だれか他人が「発見」して、環境を用意してやるというような夢物語ですら、もとの環境がないと、ない。
「なりたいという意志」と「環境」があるけど、「才能」がない場合は、なれない。
「環境」と「才能」があるけど、「なりたいという意志」がない場合は、なれない。
以下、まとめ。
「野球選手になる」と言って、野球選手になった人がいるのだから、「野球選手になると言えば、野球選手になれる」という考え方は正しいのかどうか?
野球選手になると言って、野球選手になれなかった人かがいるのだから、「野球選手になると言えば、野球選手になれる」という考え方は、まちがっている。「野球選手になると言えば、野球選手になれる」という命題は、真か偽かで言えば、偽。
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環境を用意できるかどうかも、実力のひとつという考え方がある。この場合の「実力」というのは、なんでもありの世界だ。たとえば、「運」も実力だという考え方がある。「環境を用意できるかどうかも、実力のひとつ」という言葉は「環境を用意できるかどうかも運しだい」とか「環境を用意できるかどうかも運のうちのひとつ」とかと言い換えることができるので、この場合の「実力」と「運」は等価だ。なら、「いつも実力と運は等価か」というと、そうではないのだ。「実力」のなかに「運」が含まれてしまう場合と、「運」のなかに「実力」が含まれてしまう場合がある。