もう一つ言っておくと、毒親というのは、毒親になろうと思って、毒親になっているわけじゃないんだよ。毒親というのは、毒親になる必要があると思って、意識的な努力をして毒親になっているわけじゃないんだよ。
毒親というのは、毒親のふりをしているわけではなくて、頭が〇〇〇〇だから毒親なんだよ。サイコパスというのは、わざわざ、意識的にサイコパスのふりをしているのではなくて、頭の構造がサイコパスだから、サイコパスになっているだけなんだよ。
根本的に言えば、普通の人が考えられないほど「自分勝手」なのだけど、自分勝手の、自分勝手さがちがうんだよ。普通の人が考えられない部分というのは、感覚や認知や認識が、「自分勝手」な無意識に奉仕してしまう部分だ。
あったってない。聞こえたって聞こえない。言ったって言ってない。におったって、におってない。
聴覚が正常なのに、聞こえないということになってしまう。臭覚が正常なのに、におわないということになってしまう。認知症じゃないのに、やったってやってないということになってしまう。それこそ、サイコパス的な意地で、繰り返し繰り返しやったことでも、やってないということになってしまう。
どんだけ、発狂して、意地になってやっているか。
どんだけ、発狂して意地になってやったか。
こういうことが、普通に成り立ってしまう。けど、普通の人はそういうことがわからない。
++++++++
これは、一種の妄想性の障害があるのと同じ状態なのである。脳の機能障害。やられたほうが、どれだけこまるか、一般的な人はわからない。どうしてかというと、その人たちの親は、脳の機能障害を持ってないからだ。単に脳の機能障害と書いたけど、同じタイプの機能障害ということだ。「の」が重なるので、わけて書いたけど、同じタイプの「脳の機能障害」という意味だ。
+++++++++
「気にする必要がない」という言い方は、サイコパス親が、意識的な意志で、わざとサイコパスのふりをして、ふるまっている場合に限られる。そんな場合は、ないので、「気にする必要がない」という言い方自体が、不適切だ。
これは、無意識に対応している部分があるか、感覚器を書き換えているかという問題だ。やられた人が「気にする必要がない」という言い方の場合、やった人が、意識的な努力でやったのか、無意識的な欲求があって、やっていることなのかということを、区別しない。
「どっちだって同じだ」という前提が成り立っている。
けど、この前提がまちがっている。人間同士のやり取りの場合、やっているほうの無意識は関係がある。どれだけ注意されても、注意されたという気持ちがまったく生じないというような態度は、無意識がかかわっていることを暗示している。
普通なら、相手が「やめてくれ」と言ったことは、意識される。何千回、何万回、激しく、言われても、まったく無視して、何年間もやり続けるなんことはない。何年間も毎日、意地になってやったなら、意地になってやったということを意識している。認識している状態になる。
そりゃ、起きているときにやっているのだから、普通なら、認識している状態になるだろ。
けど、それがちがうんだよ。こんなのどれだけ言ったって、そういう家族が身近にいなかった人にはわからない。どういう態度で鳴らすか、根本的にわかってない。どういう認識で鳴らすか、根本的にわかってない。どういう気持ちで鳴らすか、根本的にわかってない。
相手が、真剣に言ってきたこと、あるいは、怒鳴って言ってきたことを、〇・一秒で無視して、「言われたことになってない」状態で、やり続けるなんてことは、正常な人には、どれだけやろうと思ったってできることじゃないんだよ。
「無視している」芝居をしていたって、激しく相手が怒っているということや、相手が激しい口調で自分に文句を言ってきたということは、普通の人なら、心に残る。それが、サイコパスだとまったく心に残らない。まったく一回も言われなかったのと同じ状態で、やり切ることができる。