+++++++前投稿つづき
「体がいたい」と言っている「ノースキル・非正規・中年労働者」なんてたくさんいる。そういう人たちに、あげればいいでしょ。宗教指導者じゃなくて、そういう人たちに、直接あげればいいでしょ。
だれかひとりの「ノースキル・非正規・中年労働者」に、全財産をあたえれば、あたえた人がしあわせになれると言うのであれば、あたえればいいじゃないですか。言っておくけど、全財産だよ。
そういう美談を書いている人は、地位や名誉をうしなうかというと、うしなわない。財産をうしなうかというとうしなわない。仕事をうしなうかというと、うしなわない。子供の教育費を、見ず知らずの 「ノースキル・非正規・中年労働者」にあげても、家族はなにも言わない。しあわせを感じている父親に、子供はなにも言わない。しあわせを感じている父親に妻はなにも言わない……。
実際に、一家の大黒柱である父親が、全財産、地位、名誉を失うなら、家族がだまっているということはないと思う。かりに、家族がなにも言わないとしても、妻も子供もこまる。見ず知らずの人がしあわせになれば自分の家族はどうなってもいい(不幸になってもいい)というような発想は、普通の人間にはないだろうから、普通の人間はそういうことはしない。
「見ず知らずの人があわせになれば」と書いたけど、実際には、「見ず知らずの人に全財産をあたえることで、自分がしあわせを感じることができれば」ということだ。
フツーッチは、そういう美談に感動するみたいだけど、フツーッチが、実際に、ノースキルのアルバイト男性を見たら、どう思うか? 「そんなのは、自己責任だ」と思うんだよ。全財産を、そのノースキルのアルバイト男性にあげたりしない。
あげて、しあわせを感じたりしない。全財産どころか、ポケットにはいっている所持金ですらあげないだろう。その所持金は、その人にしてみれば、わずかな金だ。たとえば、全財産の5000分の1ぐらいの金だ。全財産の5000分の1だってあげないのに、5000分の5000なんてあげるわけがないだろ。「どうして、ノースキルなんだ? どうして、中年なのに非正規なんだ? そんなのは、自己責任だ」と言うだけだ。「腰が痛い? そんなのはあまえだ」「おまえがその職業を選んでいる」と付け足すかもしれないけど……。
たまたま、であった、ノースキルのアルバイト男性に全財産をあげてしあわせを感じるなんてことはない。そうすることで、しあわせになれるというのであれば、やってみればいい。あたえることでしあわせになるというのであれば、あたえてみればいい。全財産ね。
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家族のために用意しておかなければならない金を、宗教団体に全部、あげちゃったら、家族は悲しむでしょ。それは、不幸なことじゃないの? 家族にとっても。本人にとっても。
こういうへんな話を「感動の美談」にしてしまう人たちは、実際には、地位や名誉をうしなわない。そうすることによって、もっと地位があがってしまう。そうすることによって名声をえることができる。 こういうへんな話を「感動の美談」にしてしまう人たちは、実際には、そうすることで、お金が増えてしまう人たちだ。なら、まさしく「感動の美談」だ……ということになるのだろうけど、どうかな。
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人にあたえたとき、幸福を感じるというのは、一般的な傾向ではない。成立条件がある。人が、他人にあたえたとき、しあわせを感じる生き物なのであれば、こんな世界になってない。むしろ、奪うことにしあわせを感じているのではないか。けど、どうして、実験室だと、ひとはものや金をあたえたときに、しあわせを感じるという結論が出てしまうかというと、『文脈』がないからだと思う。つまり、実験では、条件を満たしてまっているのに、条件に関してまったく言及されてないということが考えられる。
ともかく、その手の話を聞いて、「その通りだと思う」人も「感動する」人も、実際には、全財産をほかの人にあげてしあわせを感じたりしない。お金がなくてこまっている中高年の男性なんていくらでもいる。あたえることが好きな人は、こういう人にあたえるべきだ。けど、ほんとうは、あたえない。現実の場面ではあたえない。それは、現実の場面では、実験室とはちがう条件が成り立っているからだと思う。
あたえることに快感を感じるというのは、たぶん、捨てることに快感を感じるというのおなじだと思う。それに、だれにでもあげても快感を感じるのかというと、そうでもないだろ。誰かにあげたときは、快感を感じるけど、別の誰かにあげたときは不快感を感じるということもあり得る。
経済人類学には過剰蕩尽理論というのがあるのだけど、あたえるときに快感を感じるというのは、こわすときに快感を感じるのとおなじだと思う。これ、けっこう重要な理論なのである。交易の起源に関する重要な理論だ。過剰蕩尽理論は普通の人にとってはわかりにくい理論だ。
へんな話だと思ってしまう。
過剰蕩尽理論だと、共同体のなかにないものを、ほしがるということを否定してしまっている。普通の貿易の理論は、共同体のなかにないものを、あるいは、共同体のなかではたりないものを、別の共同体から手に入れることは有益なことだという考え方が成り立っているのである。これはもう、無意識的な前提として成り立っている。その無意識的な前提を否定してしまっている。普通の人には、わからない。
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たとえば、Aという共同体とBという共同体があったとする。Aという共同体には鉄器がない。Bという共同体には小麦がない。だから、AとBの代表者が平和裏に話し合って、鉄器と小麦を交換することを考えるのかどうか? 足りないものを補うという考え方は、いまの社会では普通にある。だから、これは、貿易の理論を教えるときに、わりと頻繁に出てくる例だ。まあ、鉄器というのが問題なんだけどね。鉄の道具でもいいよ。その場合、じつは、小麦を食わない共同体の小麦を欲しがらないという問題がある。そりゃ、ほかのものを食べて、それで落ち着いているわけだから、なんだか知らない小麦を食べるということはないんだよ。小麦の料理を食べたいとは思わない。その共同体でとれるものを食べて生きたいと思うんだよ。鉄器がないから、鉄器を欲しがるか? 鉄器がないのにもかかわらず、鉄器がほしいと思うことは、平和な世界ならない。鉄器でやられた場合、鉄器がほしくなるかもしれないけど、そういう状態でないなら、特に鉄器がほしいとは思わないのが、実は人間だ。利益をもたらす交易の必要性というのは、じつは、戦争(部族間の争いが)ひきこ起こしたものなのではないかと思う。平和なのに、お互いに「たりないもの」をもらうために交易をする……。普通に考えればそうなるけど、ちがうのではないかという疑問がある。
(まあ、鉄器はまずかったかな。じゃあ、チューリップの花はどうだ? あるいは、さくらんぼ)
まあ、こういうことに興味がある人は、栗本慎一郎とバタイユを読めばいい。栗本慎一郎はいろいろとおもしろいことを言っている。
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豊富さを示すために、自分たちが一年かけて作ってきたものを、相手の前で、ばんばんこわしまくるのである。相手というのは、別の共同体の人間たちのことだ。これは、たぶん、戦争のかわりになっている、祭りのような儀式だ。
注 この論考では、「しあわせ」と「幸福」は同じ意味を持つとする。