ヘビメタ騒音の感じしかない。長すぎた。期間が長すぎた。何千日、毎日連続でやられたか。毎日連続ということが、どれだけこたえるか。どれだけ、影響を与えるか。人間は学習してしまう動物だ。
四〇〇〇日も五〇〇〇日も、毎日続いていいわけがない。成長期の一〇年間、毎日ずっと、続いたことが、その後の人生に影響を与えないなんてことはない。与えるに決まっている。しかし、家族によるきちがいヘビメタ騒音が、自分の身の上にしょうじなかったやつは、「過去のことは影響がない」など言う。
こいつは、自分の身の上にしょうじなかったことだから、そう言えるだけなんだぞ。……自分の身の上に、しょうじなかった。だから、しょうじたときの影響のでかさがわからない。影響の持続性がわからない。わからないだけ。影響を無視した推論をするな。
どれだけつらいか。どれだけ「連続して」この雰囲気が続くか。こんなの、理屈じゃない。あほな理屈じゃない。あほだと思う。「過去は関係ない」なんて理屈で、とぶようなものじゃない。残る。やられればやられるほど、影響が残るのにあほが、「そんなのは関係がない」と言う。
そういうことを言うあほは、俺とおなじヘビメタ騒音を経験してない。その人にとって、一番いやな音が、鳴っている生活というのを経験してない。
だから、言うことがちがう。
しかも、これ、鳴らしているやつが家族だということが問題なのだ。そして、ぼくが一〇年ぐらい、未成年だったというのが問題だ。そりゃ、やられてないやつは、やられてないのだから、好き勝手なことが言える。
勝手に自分で「ヘビメタ騒音の程度」と「ヘビメタ騒音の影響」を想像して、「こんなものだろ」と思って、「人間は働くべきだ」というようなことを言う。「ヘビメタ『で』働けない」と言っているのに、「ヘビメタ『で』働けない」ということを認めない。
そいつらにとっては、ヘビメタ騒音なんてたいした騒音じゃないのだ。ヘビメタ騒音の影響なんて、鳴り終わればなくなるもとだと思っている。さらに、鳴り終わって何年もたっているのであれば、絶対に影響なんて残るはずがないと思っている。
あほだ。しかし、普通の人だ。きちがいヘビメタ騒音を実際に自分の体で経験してない人はそう思うのだろう。
しかし、考えてもみろ。これは不幸なことだ。一一歳から二五歳までヘビメタ騒音を浴びたことがない普通の人間と、ヘビメタ騒音の影響をめぐって、議論になってしまうのだ。議論というよりも、言いあいだ。
そして、マジョリティーは、ヘビメタ騒音の経験がないやつらだ。マジョリティーは、想像でしかヘビメタ騒音について考えることができないやつらだ。そして、マジョリティーは「そんな年で働いたことがないなんておかしい」「人間は働くべきだ」と思うやつらだ。
そういうやつらと、言いあいになってしまうだろ。ヘビメタ騒音をめぐって。そして、マジョリティーのほうが多いのだから、そいつらが、俺の悪口を言ってうなづきあうということになってしまう。自動的にそうなる。俺の立場はどうなる?
だからそういうことになるから「やめてくれ」ときちがい兄貴に、何回も何回も言ったのに。一日に、何回も何回も言ったのに……きちがい兄貴が、きちがいおやじモードで無視して、鳴らした。そして、きちがい兄貴が、きちがいおやじモードで「鳴らした」ということを、無視する。毎日、一日ずつ、きちがい的な意地で鳴らして、一日中きちがい的な意地ですべての鳴らせる時間は鳴らしたので、まったく鳴らさなかったのと同じ気持ちになってしまう。まったく鳴らさなかったのと同じ認知になってしまう。
普通の人には想像することができない!きちがい的な無視!をしているからだ。「やっている」ということを無視して、「やった」ということを無視して、一日が終われば、その日はやってないことになってしまう。やったってやってなくなってどうでもいい日になってしまう。
なら、一日中。やめてくれるのかというと、そんなことは絶対にないのだ。「どうでもいい」なんてことはない。一秒だって、いのちがかかっているから、絶対ゆずらない……こういう態度でゆずらないのに、どうでもいいなんてことはない。
けど、全部、自分が好きなように、やり切ることができたので「どうでもいい」ことになってしまうのである。「やったってやってない」「やったって、そんなつもりはない」ということになってしまう。そして、「やったって」の部分がとれてしまう。
だから、「やってない」「そんなつもりはない」という意識が残る。こういう認識が毎日成り立つ、一五年間。きちがい兄貴よ。きちがい兄貴は、やってた。やってないなんてことはないからな。
一秒間、ゆずらないことに、いのちがかかっているんだよ。
そういうやりかたなんだよ。おやじとおなじなんだよ。
そういうのが全部、親父とおなじ。そういう脳みその構造が、全部、おやじとおなじ。だから、おやじとおなじやり方でやって、おやじとおなじやり方で、やったということを無視してしまう。
だから、悪気なんてまったくない。
じゃあ、ヘッドホンをしてゆずってくれるのかというと、そんなことは、一秒もない。
なまの音で聞くということにこだわってこだわって、絶対の意地でスピーカーで鳴らす。どんだけでかい音で鳴らしてたって、その音がでかい音だということを認めたら、しずかにしなければならなくなる。
それならば、絶対の意地で「でかい音だということを認めない」ということになる。
これが、意識的な決意ではなくて、無意識的な決意なのだ。
だから、すべてが矛盾しているということになる。
けど、そういう状態で得をするのはきちがい兄貴だ。
全部やりたいようにやって、ぜんぜんやったつもりがないまま生きることができる。責任なんて感じるわけがないだろ。本人はまったくやってないつもりなのだから、どうやって、責任を感じるんだ。
こういう、都合のよさ。きちがい頭。
全部、きちがい親父から引き継いで、きちがい兄貴がやった。
きちがい兄貴が、この頭の構造で、きちがい的ないこだわりで毎日、どんなこまかい時間も使ってずっとやったことが、ヘビメタをでかい音で鳴らすということだ。
こんなのない。こんなきちがい兄貴が横の部屋に住んでいた人間なんて、俺以外にいない。
いないから、自分の体験としてわかってない。俺と一緒の部屋に住んで、きちがいヘビメタウオンを経験したわけではない人が「そんなのは、関係がない」という世界だ。そういうことを言うやつは〇〇〇してやりたい。こんな世界で〇〇てたくない。