ちょっとだけ、引きこもりについて擁護しておく。世間の基準で言うと、引きこもりが「悪」なのだ。一度引きこもりが悪だと決めつけたあとは、引きこもりがなにを言っても、「悪い人が言い訳をしている」という線で、理解してしまう。
たとえば、ほんとうに、引きこもりになった人が、被害者であっても、「被害妄想だ」「被害者のふりをしているだけだ」というような「見方が」成り立ってしまう。引きこもり当事者は、悪で、引きこもりの家族は、善だということになっている。引きこもり集団のなかには、確かに、わるい引きこもり当事者がいると思う。
しかし、ほんとうに引きこもり当事者が被害者である場合がある。
特に、家族が加害者であって、引きこもり当事者が被害者である場合、その引きこもり当事者は、言い切れないものを抱えると思う。引きこもりをしてしまっている人が、「〇〇のせいで、こうなった」と言えば、それが、事実であったしても、「ほんとうは、〇〇のせいでこうなったわけではないのに、〇〇のせいだと言っている」ということになってしまうのである。
一般人の頭にはそういう自動解釈機能がついている。
その自動解釈機能のもとは、偏見なのだけど、偏見があると、「どんな場合でもそうだ」というような一括解釈が、よく吟味されることなく、成り立ってしまうのである。……普通の人間の頭には、そういう機能がついている。
それは、必要悪だ。
人間が人間の社会を成り立たせるには、上下関係が必要なのである。なので、上下関係を認識して、「態度をかえる」ということをしなければならないのである。人間の社会を成り立たせるための基本的な機能なのだ。
しかし、その機能が、じつは、偏見を生み出す。差別心を生み出す。なので、どれだけ差別撤廃を叫んでも、差別が残り続けるということになる。人間の認知機能、認識機能に、応じた、わるい面が、差別や偏見なのだから、もともとの人間の認知機能、認識機能をかえないと、どこまでもどこまでも、差別や偏見が生み出されるということになってしまう。
まあ、差別論はいいよ。これは、過去において何回か書いたのだけど、どこに書いたか忘れてしまった。
そこで、話をひろげないで、引きこもりの話だけに、話を限定しよう。
問題は、ほんとうにひどい家族の一員にやられて、引きこもりにならざるをえなかった人の場合なのである。 そういう場合は、ある。しかし、一般人は場合分けなどというめんどうくさいことはしない。「ひきこもり」なら、悪。家族が善。引きこもりが引きこもっていることで家族に迷惑をかけているという認識をする。
そして、そういう例……いかにもそういう例を出して、「こういう問題がある」と説明する。引きこもりになって人は、悪であるばりがはなくて、弱くて、だめな人間なのである。この「悪」にはそういう意味まで含まれている。家族に原因があるのではなくて、弱い引きこもり当事者に絶対に原因があると決めつけてしまっている。家族に原因がある場合もある。そういうことが理解できないのである。