たとえば、コンビニおいてあるものを、会計を済ませるまえに食べてしまうという行為について、あなたはどう思うだろうか。
AさんとBさんがいたとする。Bさんがコンビニで買い物をしていた。Aさんが、コンビニに入ってきて、チーズかまぼこの袋を開けて、チーズかまぼこを一本取り出し、チーズかまぼこの切取り部分をちぎって、チーズかまぼこをむしゃむしゃと食べ始めたとする。
Aは、「後で会計をすますつもりなので、別にこういうことをしても問題がない」と考えている。Bさんは、Aさんの行為を見て、「まだ会計を済ませてないものを食べるのは、よくない行為なのではないか」「会計を済ませて、はじめて、自分のものになるのだから、まだ、自分のものではないものを食べるというのは、法律的に問題があるのではないか」と思った。
AさんとBさんのあいだで、ひとつの行為に関する意見についてちがいがある。どうしてこのような違いが発生するかというと、Aさんがそれで迄に経験したこととBさんがとれまでに経験したことがちがうからだ。あるいは、Aさんがそれまでに学習したこととBさんがそれまでに学習したことがちがうからだ。ぼくは、これを「文脈」と言っている。
ある日、会計を済ませるまえに、封をあけて食べることは正しい行為だということになったとする。そして、それが奨励され、会計を済ませて、封をあけることは、ださいということになったとする。
そして、そのあと、封をあけないで、会計を済ませることは犯罪行為として禁止されたとする。その場合、Bさんは、そのままの自我で、対応できる。しかし、Aさんは、そのままの自我では対応できない。文脈の書き換えが必要なのである。たとえ、封をあけて食べるか食べないかということに関してだけ書き換えるにしろ、別の価値観も関連しているものは書き換えなければならなくなる。
たとえば、立ち食いはみっともないという関連している価値観があるなら、それも書き換えなければならない。立ち食いはみっともないけど、座って食うのはみっともなくないと考えているのであれば、店の床に座り込んで食べるということになるだろう。
店内で、封を開けて食べるかどうかが問題なのだけど、関連して、立ち食いはマナーが悪いという考え方をもっている人は、その考えたを維持するなら、店のなかで座って食べなければならなくなるのである。
あるいは、しゃがみこんで食べるいうことや立ち止まらずに歩き回って食べるということを考え出さなければならない。その場合、そうすることは、ほかの人にとってみっともないことなのか、マナー的にゆるせることなのかは、わからない。立ち食いにするか、非・立ち食いにするのか、決めなければならなくなる。
また、店のなかで、立ち食いをしたり、しゃがんで食べたり、店の床に座り込んで食べたり、歩きながら食べるのは、マナー違反だという価値観を持っている人は、立ち食いも、非・立ち食いもできなくなるので、コンビニですぐに食べることができる食品を買うことができなくなってしまう。
さらに言えば、どういうものが、「自分のもの」で、どういうものが「店のもの」なのかということまで、関連しているので、それにまつわる、考え方を書き換えなければならなくなる。
いずれにせよ、自分のなかにある価値観と、整合性がある行為を選択しなければならないのである。そして、いままで、違反であると思っていたことを、正しいこととしてするのであれば、その考え方とその考え方にまつわる考え方を、かえて適応しなけばならなくなるのである。
これは、会計を済ませるまえに、封を開けて食べるかどうかということに関してだけど、人殺しが、ゆるされ、奨励される場合はどうなのかということについて考えると、人殺しの場合はもっと広範な範囲で書き換えを行わなければ、適応することができないということになる。
人を殺したあと、くよくよといつまでも気にしているのは、気にしすぎだというような「感覚」が主流になるだろう。人を殺したあと、いつまでも気にしている人は、弱い人だというとになってしまうだろう。人を殺したあと、いつまでも気にしているような弱い人のために、「気にしなくても済む方法」が、ブログなどに掲載されるようになるだろう。
いつまでも、気にするのはおかしいのだから、治療を受ける必要が出てくるのである。じつは、認知療法は「人を殺したあと、いつまでもくよくよ気にしている人にも」有効なのである。ただ、文脈はあるので、いままでの文脈に、おおきく反するものがある人は、それなりに苦労する。