日本の学校に入れられてしまったら、動作がにぶい人は、いろいろとせめられることになる。人よりも早く動くことができるというのは、才能だ。 才能がある場合はいいけど、才能がない場合は、それだけで、せめられるのである。「クラスの足をひっぱる」と言われる。この「せめ」は、学校公認である。近代的な教育システムが作り出しているものだ。必然的に、せめられることになっている。もし、せめられることを回避したいなら、「努力をする」しかない。しかし、努力をしてもできない人はいる。努力をしても動作がにぶい人は、動作がにぶいということだけで、せめられる。なぜか? 「足をひっぱるから」である。そして、「努力をしてない」ということになってまうからだ。「努力をすればできるようになる」と考えている人から見ると「できるようにならないのだから、努力をしてない」ということになってしまう。
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学校は「比較」の「容器」だ。学校自体が比較の容器なのだから、学校に入っているのに、比較されないということはない。かならず、比較される。全体のなかでの自分の位置(地位)みたいなものを思い知らせるために、学校があると言っても過言ではない。学校は比較の容器だから、学校のなかにいて、「比較をするな」と言うのはむりなのである。あるいは、学校のなかにいる人間にたいして「人と比較をしても意味がない」というようなことを言うのは、まったく無意味なことだ。どうしてなら、自主的に比較しようがしまいが、比較されていることにはかわりがないからだ。そして、特に比較という意味を持たないものまで、比較された結果が反映されることになる。たとえば、AさんとBさんがいるとする。その場合、Aさんが、別に比較をしてなくても、Bさんのなかで、Aさんが自分より下なのであれば、BさんのAさんに対する行動にその認識が反映される。Aさんは、抽象的な意味での比較を無視することができるけど、Bさんの自分に対する行動は無視できない。Bさんのことについて書いたけど、学校に参加しているすべての人間が、Bさんとおなじような他者なのだから、Aさんがもし、ほんとうに、実際に行動にあらわれる「比較」を無視するのであれば、学校に参加しているすべての他人の「比較」を無視しなければならなくなるのである。これは、現実的ではない。どうしてなら、特に比較という要素を持っているように見えないものに関してまで、比較が影響を及ぼしているからだ。
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たとえば、「自分は自分」「他人は他人」「自分は自分なのであいつがどれだけできるかは関係がない」という考えを持っている人がいたとする。しかし、「自分は自分、他人は他人」という考え方もじつは、比較のうえに成り立っている考え方のである。一度は、比較を受け入れ、比較を内面化したから、「自分は自分」「他人は他人」と言っているにすぎない。「自分は自分」といった「自画像」は、他者との比較によって作り出された「自画像」なのだ。ここでいう、「自画像」というのは、「自己のイメージ」だ。自分のなかにある自己のイメージ自体が、他人との比較によって作り出された自己のイメージなのであるから、「自分は自分」「他人は他人」と言っても、「他者との比較」を含んでいる。
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この時間も鳴ってた。どれだけ言っても、やめてくれなかった。きちがい兄貴が、きちがい親父の形相で、きちがい的な無視をして鳴らす。
この時間も鳴ってた。
2021年06月12日(土) 04:00
騒音サイコパス 13
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