「楽しんだほうがいい」というのは、わかる。
けど、ぼくは、これ、楽しむ能力というのが、決まっているわけではないと思う。実際に楽しめるかどうかは、その人が、経験してきたことで決まると思う。
ようするに、個別の能力を想定して、「自分は楽しむの力がある」「あの人は楽しむ能力がない」と決めつけるのは、よくないと思う。
実際に、楽しむ能力というものがあるならば、楽しむ能力に対応しているのは、個人の経験だ。体験だ。実際に、体験したことが影響を与えている。理屈じゃないのである。「べき論」ではないのである。「べき論」はこの場合、「楽しむべきである」という「べき論」になる。
「一度の人生なのだから、楽しむべきなのである」「楽しんで暮らしている人は、ポジティブでいい人だ」「楽しんで暮らしてない人は、ネガティブで悪い人だ」……と。
まあ、こんなことが語られるわけよ。「善悪」「好悪」が最初から決まっている。「楽しんで暮らしている人は善」「楽しんで暮らしてない人は悪」「楽しんで暮らしている人は良い感じがする(なので好感が持てる)」「楽しんで暮らしていない人は、悪い感じがする(悪い感じしかしない)」というような意識にもとづいたことが語られる。
あとは、自己肯定感が高いと、人生を楽しむことができて、自己肯定感が低いと人生を楽しむことができないということが言われる。
これには、「例の疑惑」がある。
ようするに、「自己肯定感が高いから人生を楽しむことができる」のではなくて「人生を楽しむことができるから、自己肯定感が高くなる」のではないかという疑惑だ。また、「自己肯定感が低いから、人生を楽しむことができない」のではなくて、「人生を楽しむことができないから、自己肯定感が低くなる」のではないかという疑惑だ。
けっきょくのところ、冒頭で述べた通り、体験に、いきつくのではないかと思う。
そうでしょ。実際の体験が、悪い意味で、きつくて、つらいのに、楽しめますか?
楽しめるという人は、マゾか、あるいは、いい意味で、つらいことに意味を感じているのではないかと思う。
悪い意味で、きつくてつらいというのは、書きかえられない。
しかし、ほんのちょっと負荷があることを、やって成功した場合、きついけど、楽しいという感覚が生まれる。ほんとうは、無意識的に「悪い意味」と「いい意味」のちがいがわかる能力はあるのだと思う……人間は。すべての人間は……。
しかし、「悪い意味できついこと」を経験したことがない人は、経験したことがないので、「悪い意味できついこと」が経験としてわかってないのだと思う。ようするに、その人にとっては「悪い意味できついこと」はこの世に存在しない。なので、「きついことでも、楽しいことに書きかえることができる」と言うまちがいをおかすのである。
ようするに、悪い意味できついことは、いい意味できついことにはならないのだけど、いい意味できついことしか経験してないので、悪い意味できついことと、いい意味できついことのちがいを認識でないのだと思う。
そういう人たちにとっては、きついことというのは、一意にいい意味できついことに決まっているので、きついことも、楽しいことに書きかえることができるという信念を持つにいたる。
その人たちにとってのきついことというのは「いい意味できついこと」に限定されているので、そういう認識ができあがる。
しかし、ほんとうに、悪い意味できついことは、いい意味できついことにならないのである。どれだけ、自分を洗脳して書きかえようしても、悪い意味できついことは、いい意味できついことにかえることができない。そういうことができると言っている人は、ほんとうに悪い意味できついことを、五年以上毎日経験したことがない人だと思う。
その場合、本人は、「最初はつらかったけど、あとになったら楽しくなった」というようなことを言うかもしれない。それは、ちょっと負荷があることを、悪い意味できついこととして、認識しているだけである。
ちょっと負荷がかかることは、本人が主観的に最初は「きつく」感じても、達成感などを味わえるので、そんなに悪いことではないのだ。つまり、最初から、悪い意味できついことではない。実際に、悪い意味できついことを数年間にわたって毎日経験した人じゃないと、ここらへんのちがいがわからないのかもしれない。
個別の能力の問題ではなくて、個人が経験してきたことがそのまま反映されているだけではないと……ぼくは思う。「楽しむことかできる」「楽しむことかできない」という話をする場合、あたかも、「楽しむ能力」が……固有の能力としてある……という前提で話をしているように思えるのだ。
しかし、固有の能力としての「楽しむ能力」なんてものは、じつはないんじゃないかと思う。
「楽しむ能力がある人」「楽しむ能力がない人」という言い方をする場合、楽しむ能力がある人のほうが優れているような感じを受ける。けど、それは、固有の能力ではなくて、体験によって押し出されてしまうものなのではないかと思う。その時点での固有の能力というものを考えてしまってはダメなのである。
ようするに、その時点での「楽しむ能力がある人」「楽しむ能力がない人」という分類は、例によって、生まれの格差を隠すものなのではないかと思う。ようするに、ほんとうは、論点をそらしている。
固有の能力としての「楽しむ能力を上げる方法」として、紹介されていることが、すべて、うちのめされた人にとっては、つらい方法なのである。憂鬱度があがる方法なのである。読んだだけで、不愉快な気持になる方法なのである。
これが、不思議なんだけど、……いや、不思議でもないか?……楽しむ能力をあげる方法を読んだ人は、うつになってしまうのである。 もちろん、「うちのめされた人」が読むと、うつになるということだ。ニュートラルな人は読んだからといってうつにならないだろう。
どうしてなら、うちのめされてないからだ。
本人が「俺にだってつらいことはあった」「わたしにだってつらいことはあった」と言っても、ほんとうは、それは、いい意味でつらいことを経験しただけであって、悪い意味でつらいことを経験してないのではないかと思う。「うちのめされた人」は、悪い意味でつらいことを、最低五年間ぐらいは、毎日、経験しているものだ。積み重なってしまうのである。この期間の長さが問題だ。
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ほんとうは、固有の能力としての「楽しむ能力」などというものは、なくて、ただ単に、経験がちがうから、事柄に対する反応がちがうのではないかということだ。ぼくがここでずっと述べているように、生まれの格差がある。生まれの格差は生まれた時点での格差だけけど、経験を通して拡張されていくのである。ようするに、親がきちがいだと、不愉快な体験がつもっていくのである。あるいは、才能がないと不愉快な体験がつもっていくのである。不愉快な体験の回数が増えると、人間は楽しめなくなるのではないかと思う。ようするに、「いま」の時点で、楽しめる人は、不愉快な体験が少ない人で、「いま」の時点で、楽しめない人は、不愉快な体験がめちゃくちゃに多い人なのではないかと思う。体験の差が、楽しめるか、楽しめないかの差になると思う。その場合、「能力の差」ではないということになる。楽しむ能力がある人と楽しむ能力がない人が「さいしょから」決まっているわけではないのだ。
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