外向的な性格と内向的な性格というものを考えた場合、外向的な性格のほうが、内向的な性格よりも物事を楽しむことができると考えている人がおおいのではないかと、ぼくは、思う。
しかし、内向的な性格とは、自分の内側に興味を持っている性格であり、自分が興味を持っていることに関しては、楽しむことができるのだ。
外向的な性格の場合、他人に興味を持っている性格であり、他人といっしょにいることや、他人となにかをやることに楽しみを感じる性格なのだ。
なので、別に外向的な人のほうが楽しむ能力があるというわけではない。内向的な人にも、自分の興味がむくことに関しては、夢中になって楽しむ能力があるわけで、楽しむ能力がないというわけではない。あるいは、楽しむ能力において、外向的な人とくらべて、比較劣位であるわけではない。
しかし、イメージとしてはどうしても、内向的な人は暗い、外向的な人は明るいというような感じにななる。そして、暗いよりも、明るいほうがいいという感じ方が一般的だ。
なので、内向的な人は、楽しんでないような印象を受ける人が多いのではないかと思う。しかし、内向的でも楽しんでいる人はいる。なので、問題はそこではない。
問題なのは、経験なのだ。どんなことを経験してきたかということが、「楽しむことができるかどうか」ということに影響を与える。そして、意識的な意志では、これをかえることができない。にもかかわらず、「かえることができる」と考えている人が多いことが問題だ。
自然な感情を生み出す部分の上に「意識的な意志」がのっかっているので、自然な感情を生み出す部分には、「意識的な意志」の手が届かない。自然な感情を生み出す部分を「意識的な意志」が制御しようとしてもむだだ。制御できないところに、自然な感情を生み出す部分がある。「意識的な意志」が効率を考えて、どれだけ、自然な感情を生み出す部分に命令をしても、その命令は届かない。自然な感情を生み出す部分が、「意識的な意志」の味方をしているときだけ、「意識的な意志」が機能する。あるいは、機能していると本人が自覚することができる。意識的な意志も自然な感情が生み出す部分なので、意識的な意志が自然な感情を生み出す部分を自由に操作するということはできない。
自然な感情を生み出す部分がなんらかの理由で損傷してしまった場合、意識的な意識がどれだけ命令をしても、自然な感情がわきだすということはない。自然な感情を生み出す部分が、「楽しいと思う感情」を生み出しているので、この部分を、意識的な意志でどうにかしようとするのはまちがっている。
しつこくなるけど、あたかも、意識的な意志で自然な感情を操作できるということを言っている人たちがいるけど、この人たちは、たまたま、自然な感情を生み出す部分が破壊されてないだけなのである。
自然な感情を生み出す部分が「意識的な意志」を生み出し、自然な感情と意識的な意志が「同じ方向を向いている状態」しか経験したことがないので、あたかも、自分の(意識的な意志)が自分の(自然な感情)を制御できると思ってしまっているのである。これは、ある意味しあわせだけど、まちがっている。
自然な感情を生み出す部分が、なんらかの理由で破損してしまった人に、意志の力で、自然な感情を制御することができるというようなことを言うのは、有害だ。
本人(たち)が「同じ方向を向いた状態」しか経験したことがない、ある意味、しあわせな人(たち)なので、損傷を受けてしまった人(たち)のことがわかってない。この人(たち)は、わかってないだけなのだ。この人(たち)の主張は残念ながらまちがっている。