あー、つまんない。すべてがつまらない。
ちょっとずつは、いろいろとやっているけど、それは、日常を維持するようなことだ。日常の維持」……これがけっこうむずかしい。微妙なバランスのうえに成り立っている。どうするかな?
「すべてがつまらない」と書いたところで、どうにかなるわけでもない。きちがいヘビメタで、根本的なところがやられた。もう、疲弊してどうにもならない。ほかの人たちにはわからない。どうしてかというと、俺とおなじヘビメタ騒音生活をしてないからだ。
成長期に、あれをやられてないからだ。きちがいが、「ふつーー」にやりやがった。普通の人たちのなかで、ヘビメタ騒音はたいした問題じゃない。自分がやられなかったということもあるけど、想像がつかない。ひどさがわからない。どういう生活になるか、わからない。それは、話を聞いても、理解できないことだ。
だから、まあ、二段階あるんだろうな。経験がないということ、そして、想像してもわからないということが積み重なっている。想像して、わかる人たちも、少数だけどいる。けど、その人たちは、少数派だ。
普通の人は、想像してもわからない。
兄貴のヘビメタ騒音のことを、あまく見る。それこそ、あまく見る。自分の「ちょっとした騒音体験」をもとに、「こういうものだろう」と想像してしまう。その想像が、間違っていても、本人は、わからない。わからないし、わからなかったからといって、そいつらのほうに問題がしょうじるかというとしょうじない。
わからないまま、俺のことを「ぶったぎった」ほうが気持ちがいいという点もあるかもしれない。まあ、俺は、おかえしをしてやりたいとは思うけどな。さすがに……。こういうやつらは、自分がなにをしているのかわからない。
これは、きちがい兄貴の「わからさな」とは完全にちがう。きちがい兄貴の「わからなさ」というのは、もっと病的なものだ。無意識的なレベルでの「きたなさ」を想定しなければ、到底、理解することができないことだ。
きちがいおやじも、きちがい兄貴も「しらないことにして」自分のやりたいことをしやがるんだよ。きちがいおやじは自動的に腹を立てるわけだし……きちがい兄貴は自動的にでかい、でかい、でかい、音でヘビメタを鳴らすわけだ。
これ、ほかの人には通じないかもしれないけど……まったくわからないかもしれないけど……かならず、きちがい的な意地で「やる」のに、同時に「まったくやってないつもり」が成り立っている。そういう、無視のしかたなんだよな。
もちろん、相手の立場は無視しているのだけど、さらに、自分の「現実認識」を無視しているところがある。これは、わからない。そういう状態を見た人じゃないとわからない。
きちがいがつねに毎分毎秒きちがい的な意地でやり続けるけど、とうのきちがいは、つねに毎分毎秒「やってないのとおなじ気持ち」なのだ。
そりゃ、やられたほうの認識に影響を与えるだろう。
けど、これがまた、普通の心理学者にはわからないんだよな。とくに、めぐまれた家ですごした認知療法家にはわからない。たしかに、受け止め方の問題だという、言い方は成り立つけど、そういう言い方をしているときに、無視してしまうことがある。それがわかってない。
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