ヘビメタの嫌な感じが、雰囲気になって消えない。
たとえば、朝の感じは、この感じなんだけど、この感じは、きちがいヘビメタが鳴っていた頃の朝の感じだ。
消えない。
どんだけ、脳みそに刻み込まれてきたか。人生のなかで、どれだけ、こういう朝を経験してきたか。
この雰囲気。この雰囲気。おわっている。
ほかの人にはわからないんだよな。どうしてかというと、きちがいヘビメタ騒音の経験がないから。ヘビメタ騒音の経験じゃなくて、きちがい兄貴によるヘビメタ騒音の経験がないから、 わからない。どれだけ、長く続いたか!!
どれだけきちがい的な態度か!!!ほかの人はまったくわからない。
実際に、きちがい兄貴の!ヘビメタ騒音にさらされてない。きちがい兄貴の態度がわからない。どういう騒音なのかわからない。
きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、きちがいヘビメタを鳴らし続ける。こまった。たえたけど、こまった。たえているあいだに、体力と気力と能力をうしなった。ほかの人は、この文脈が見えない。だから、俺のことを誤解する。下に見る。
けど、そいつらだって、おなじことをやられれば、同じような状態になる。引きこもりになる。学校に通えなくなる。会社に通えなくなる。憂鬱になる。元気がない状態になる。覇気がない状態になる。いろいろなものに対する興味を失った状態になる。激しく体力を消耗した状態になる。夜、眠れなくなる。
全部、これ、ダメ人間の特徴。
学歴がなくなる。学力がなくなる。
ほかの人はやられてないから、わからない。
それから、ぼくは騒音耐性がないわけじゃない。たぶん、普通の人よりある。それは、幼稚園の真ん前に住んでいるということで、証明できる。これ、ほんとうに、となりの人が結婚したんだけど、その相手が、幼稚園の騒音にたえられなくて、離婚した。大きな理由はそれ。「ここにいたら、おかしくなってしまう」という理由だ。幼稚園の騒音だって、メンタルをやられる人間はいる。
ぼくが生まれたときから、幼稚園は、目の前にあった。むかし、幼稚園のことを騒音で訴えた人のことを、きちがい呼ばわりしたやつがいた。そいつは「幼稚園が横にあることを知っていて、引っ越したのだから、そんなのはそいつの責任だ」という理論を振り回していた。それは、わからない。どうしてかというと、その人(訴えた人)が幼稚園の横に引っ越したと、そのばかは決めつけているけど、そういう情報はない。その人(訴えた人)が住んでいるところの横に、幼稚園ができたのかもしれないのだ。あるいは、その人の親が、幼稚園がないところに、土地を買って家を建てたあと、その人が(訴えた人)が生まれて、そのあと、横に幼稚園ができたかもしれないからだ。「幼稚園が横にあるところに引っ越したから悪い」というのは、そのばかが、そういうことしか考えられずに、決めつけたことだ。
まあ、AさんとかBさんと言ったほうがよかったか。たしかに、「その人」「その人」ということになると、だれのことを言っているかわからない。いちおう、いい人のことは、人。わるいやつのことは、「やつ」とか、「ばか」とかと言っておいた。いちおう日本語がわかる人が読めば、だれがどうして、それについてぼくがどう考えているのかわかる文章だと思う。
あほだから、幼稚園の横にその人が引っ越してきた場合のことしか考えてない。ほかの可能性について考えることができない。こういうあほ。こういうあほが、騒音なんて、騒音がうるさいと言っているやつのほうがきちがいと決めつけて、あほなことを言う。まあ、あほだからしかたがないか。