ちょっと、繰り返しなるけど、アフリカの貧しい地域に住んでいる貧しい子供が、「三〇〇〇円のステーキ」を食べられるかどうかということについて、もう一度、考えてみよう。三〇〇〇円と書いているけど、各国の通貨に換算して三〇〇〇円相当のステーキということだ。
まず、おカネをかせがないことには三〇〇〇円のステーキは食べられない。そして、近くに三〇〇〇円のステーキを食わせてくれる店があるかどうかを調べなければならない。
近くにない場合は、どこにそういう店があるか調べなければならない。遠くにある三〇〇〇円のステーキを食わせてくれる店に行くまでの道のりについて考えなければならない。そして、その交通費をかせがなければならない。
いっぽう、たとえば、東京のサラリーマンは、三〇〇〇円のステーキを食わせてくれる店について、たぶん、知っている。街を歩けば、いろいろな店があり、そういう店でどのくらいの値段で、ステーキを提供しているかわかる。
もし、わからないとしても、スマホで調べればすぐにわかる。給料をもらっているので、一食三〇〇〇円ぐらい払うことは、なんでもないことだ。まあ、「奮発して食べないと食べられない」ということもあるかもしれないけど、奮発すれば食べられる値段だ。
なので、三〇〇〇円のステーキを食べようと思ったら、三〇〇〇円のステーキを食べることができる。
アフリカの子供は、三〇〇〇円のステーキが食べられるのに、食べないということを「選択」しているのだろうか? ぼくは、「選択」してないと思う。
それなのに、精神世界の人は生まれの格差を無視して、「あなたの現実は、あなたが選択したものだ」と言ってしまう。
ようするに、いろいろな方法を考えても食べられないという状況は、自分が作り出したものだということを言っているのである。いろいろな方法を考えても食べられないという状況は、自分が選択したものだと言っているのである。
しかし、現実世界ではそうではない。精神世界の人たちは、生まれの格差というものを無視して、すべては、自分が選択したものだと言う。
たしかに、昼食で、牛丼を食べるか、冷や麦を食べるか、ハンバーガーを食べるか、チャーシュー麺を食べるか、タンメンを食べるか、寿司を食べるか、パンを食べるか選択できる……人はいる。店がたくさんあるところに住んでいるか、そういう地域に通っていて、なおかつ、おカネを持っている人は、なにを食べるか選択できる。
そういうふうに、選択できるものは選択できる。
選択肢のなかに、牛丼を食べるという選択肢が含まれているので、数ある選択肢のなかから牛丼を食べるということを「選択」することができる。
しかし、これは、自分には所持金があるということや、自分がいる場所の近くに、いろいろな店があるという「条件」が、みたされてなければならない。店もあるし、おカネもある……そういう状態で選択できることなのだ。
なので、「なんでも選択できる」ということではない。
東京に住んでいるサラリーマンだって、自家用ジェット飛行機は、たいていの場合、買えない。一億円する食べ物は、たいていの場合、食べられない。これは、選択肢のなかに入ってない。
人によって選択肢がちがう。条件がちがう。
こういうことをまったく考えないで、「選択」「選択」と言っているのが、精神世界の人たちだ。
これ、「選択」と言っているけど、「思ったことが現実化する」という言い方にスライドさせることができる。「どういう現実だって選べるのに、あなたが、いまのような現実を選んだからそうなった」というような考え方だ。
自家用ジェット機を買える自分を思い浮かべれば、自家用ジェット機を買える自分になったはずなのである。それなのに、自分に制限をもうけて、「自分は自家用ジェット機なんて買えない」と思ったから、「自家用ジェット機が買えない自分がいる」のである。
なので、「自家用ジェット機を買える自分」を思い浮かべればそれだけで、「自家用ジェット機を買える自分になる」のである。
この場合、「思った」ということと、「選択した」ということは、おなじことだ。等価だ。言い換えているだけだ。「思ったこと」を「関心」と言い換える場合もある。
あるいは、言い換える方向がちがうけど、「引き寄せ」という言葉にも言い換えることができる。強く思えば、引き寄せることができるのである。これは、「思えば、現実化する」ということと、同じだ。
ともかく、「選択」という言葉を使っているけど、言っていることは「思っていることは現実化する」ということと同じだ。
「思う」というところを「言う」と言い換えると、「言ったことが現実化する」ということになる。言うことで、現実を選択できる……こういうふうに言い換えれば、言霊的な考え方になる。わざわざ「選択」というような用語を使う必要は、なくなる。
こういう考え方は精神世界の中では、くり返し現れる考え方だ。